2015年05月31日

森林公園

 今日は埼玉県滑川町にある国営武蔵丘陵森林公園に行きました。
 最寄り駅にツバメがいっぱいいてびっくり!
 改札の内側も外側も階段も、巣だらけ。

 ツバメたちは駅構内をシュッ、シュッと飛び交い、枠にぶつかることもなく小さな窓から外に出て行く。
 ツバメの飛ぶ姿は何度見ても美しい。
 巣で親を待つ子ツバメたちも可愛かった〜

 今日は気温が高かったので(埼玉の予想最高気温は31度。実際それくらいだったと思う)サイクリングは辛いかな〜 と心配していた。
 でも走り始めてみると、道は木々の陰になっているし、汗が風で乾くから全然暑くなかった。
 ただ途中、水分不足になったのか坂道で息切れしてしまい、大変だった。

 もちろん水は飲んでいたのだけど、汗が想像以上に出ているようで(すぐ気化するから気付かない)かなり意識して飲まないと危ない。
 それさえ気を付ければ、真夏のサイクリングも問題なくやれそう。

 木の葉の間から差し込む光を浴びて、鳥の声と風の音を聞きながら走るのは本当に気持ち良い。
 道沿いに咲く花を楽しんだり。
 あちこちで栗の花の香りをかいだ気がする……(嫌いじゃない)

 時々、虫が顔に当たるのが難点かな。ポコッ、ポコッとね。
 しゃべったり、あくびをしたりする時に、いつか口に入っちゃうんじゃないか。

 森林公園の周りの田んぼは、田植えをしたばかりのようでした。
 公園の緑だけでなく、この稲の成長も楽しみ。

 帰宅途中、スーパーで厚めの豚肉を買い、夕飯はしょうが焼きに。
 自然を満喫して、美味しいものを食べて、幸せな日曜日でした♪
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:19| 地元(千葉・埼玉)ネタ | 更新情報をチェックする

選ぶ力

 今は、情報や選択肢が処理しきれないほど多いから、
「自分にとって有益なものを選んでいく力」
 がかなり重要になっていると思う。

 何となく目の前にあるものを追っていたら、時間は吸い込まれるように消えてゆく。
 自分が求めているものと他人が求めているものは違うので、誰もあてには出来ない。

 私はいつも、これまでに見たり読んだり聞いたり経験したりしたものの中で、
「心に残っているのはどれか」
 をこまめに確認するようにしている。

 面白いと思いながら見たのに、意外に残ってないものもあるし、退屈だなーと感じながら読んだのに、場面がたびたびよみがえる、なんてものもある。
 そうやって、心に残るジャンルや人(作者など)や行動を選んでいく。
(心に残らないジャンルや人や行動を切り捨ててゆく)

 もし全知全能で死なない体なら、何もかも見たり読んだり聞いたり経験したり出来る。
 能力と時間には限りがあるから、選ばなければいけない(捨てなければいけない)

 選び方が、その人の頭や心を作ってゆく。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:36| 考え | 更新情報をチェックする

2015年05月29日

原稿用紙○○枚、という単位

 小説を書く時、原稿用紙ではなくワープロソフトを使っているのに、原稿用紙で何枚分かたびたび確認するクセがある。
 一行を20字に固定して、行数を20で割る。けっこう面倒。
 でもそうしないと、自分がどれくらいの量を書いたのか、感覚としてつかめない。

 最近は原稿の量を文字数で表現するのを見ることが多くなった。
「今日は〇〇バイト(←情報量の単位)書いた」
 なんて言い方をする人もいるので驚く。

 確かに原稿用紙なんて実際に手にすることもないのだし、文字数やバイトの方が現在の執筆状況に合っている。
 しかし例えば「1万文字の原稿」と言われても、それが長いのか短いのか(小説の場合、長編か中編か短編か)私はすぐに判断出来ない。
 10000を400で割って(=25)ようやく、
「ああ、短編か」
 と思う。

 こんな風に「原稿用紙換算」がしみ付いているのは、文学賞に投稿していたからだと思う。
 文学賞にはたいてい原稿量の規定があり、「原稿用紙○○枚」と書かれている(最近は違うのかもしれないけれど、私が投稿していた頃はこうだった)
 自分の小説が原稿用紙で何枚か計算しないと、まず出す賞を決められない。

 私が書いたある小説は、22125文字で、Wordファイルだと53キロバイトあり、原稿用紙換算すると73枚。
 文字数とバイトは今日初めて見た。
 何度もやってみないと、文字数とバイトで長さをつかめるようにはならないと思う。

 慣れ親しんだ単位でしか、量の実感(長い・短い等)が得られないのがよく分かる。
 尺貫法が禁止された時に困った人たちのことを思う。

 「原稿用紙○○枚」という表示もそのうちなくなるのかな……
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:39| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年05月28日

「21_21 DESIGN SIGHT」の読み方

 昨日の記事の単位展の会場である「21_21 DESIGN SIGHT」
 現代美術やデザイン寄りの展示が多くてよく行くのですが、長いこと呼び方を知らなかった。
「ミッドタウンの端っこにあるアレ」
 と覚えておけば辿り着けるし。

 ある時、美容室で美術展の話になった。
 会場を説明しようとして、
「えーっと、ほら、あそこ。『にじゅういち、にじゅういち』って書いてある……」
 笑い出す美容師さん。
「『トゥーワン・トゥーワン・デザインサイト』ですね!」

 これが正式名称(公式サイトのこのページに説明がある)
 入り口には「21_21」という番地の表示みたいなプレートがかかっている(これ
 「にじゅういち、にじゅういち」で分かってくれる美容師さん、大好きだよ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:50| 美術 | 更新情報をチェックする

2015年05月27日

「単位展」感想

 東京ミッドタウンにある21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「単位展」に行ってきました。

 ラジオ番組で紹介されたのを聞いて興味を持ったものの、単位の勉強ばかりだったらつまらないかも……
 なんて心配する必要なかった。
 色んな方向から単位を意識させてくれて、面白かったです!

 言葉でしか知らない単位を実感したり、

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↑各単位の長さの木。尺とフィートがほぼ同じだと初めて気付いた。

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↑各単位の重さのサンドバッグのようなもの。一貫の重さに驚く。百貫デブは375kgですよ……

 DESIGN SIGHTだけあって、デザインする人が使う単位も多かった。

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↑物の角をどれだけ丸くするかを示す、R見本帖。

 私には馴染みのないものなので、へぇ〜っと感心。

 大工さんが使う「曲尺」の便利さにも打ち震えた。
 直角に曲がった定規で、一見単純に見えるけど、メモリが数学的に工夫されている。
 木の直径を測ると、そこから作れる柱の太さがすぐ分かったり。

 単位によって物事は明確になり、物を正確に作れるようにもなる。
 自分の中の単位の世界が広がった気がしました(主に、物理学からデザインの方向に)

 5月31日(日)まで。
 お客さんは多いですが、平日なら辛くなるほど混雑することもないんじゃないかな。
 興味のある方は明日か明後日のうちにどうぞ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 22:53| 美術 | 更新情報をチェックする

2015年05月26日

Cocco「クムイウタ」

 久々にCoccoの「クムイウタ」というアルバムを聴いた。
 1998年の作品。

 20代の頃、私はCoccoが好き過ぎて、自分とCoccoの区別がつかないくらいだった。
 ビデオクリップを見るたび、
「私が私の気持ちを歌っている」
 という錯覚を起こした。

 「クムイウタ」に収録されている「裸体」という曲には、Coccoの叫び声が入っている。
 音楽技法としての「シャウト」ではない。
 発狂した人間が叫び出し、周囲も止められなかった、というような生々しい声。

 これを聴くたび、
「Coccoは私の代わりに叫んでくれている」
 と思った。

 20代の頃は恋愛も仕事も全然うまくいかなかった。
 その苦しさを文章にしようとしても、それさえうまくいかなかった。
 解決することも、表現することも出来ない心の暗雲に、Coccoは形を与えてくれた。
 感情にぴったり寄り添う言葉と音楽。

 今はそれほど熱心にCoccoを追いかけている訳ではない。
 嫌いになったのではなく、
「Cocco無しには生きられない、という状況から脱することが出来た」
 という言い方が一番適切な気がする。

 もしCoccoがいなかったら、私の20代の辛さは5割増しくらいになっていたと思う。
 彼女が叫んでくれなかったら、私が叫んでしまったはず。

 誰かの代わりに叫んだり、言葉や物語を見つけたりすること。
 私にもやれるだろうか。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:52| 音楽 | 更新情報をチェックする

すごく良い人生

 一週間以上前に引いた風邪、まだ尾を引いております。
 のどの炎症が完治しないんだよね。
 それでも毎日暑くて汗をかくので風呂に入らない訳にもいかず、出てきたらやっぱりちょっと悪化していた。
 粘膜が腫れているのか、息苦しい。

私「朝起きた時に、窒息して死んじゃっていたとしても、私の人生はすごく良い人生だったから」
D「いきなりこれまでのことを振り返らないで……」

 Dちゃん、困惑。
 今朝はちゃんと生きたまま目覚めることが出来てホッとしました(死んだまま目覚めたら大変だ)
 でも夜中じゅう、ずーっとうなり声を上げていたそうです。
 苦しかったんだな。うるさくしてごめんよ、Dちゃん……

 昨日は何となく言葉の流れで「良い人生」と言ったけど、改めて考えてみると、本当に私の人生は良い人生だった。
 好きなことが出来たし、好きな人に好きになってもらえたし。
 いつ死ぬかに関係なく「良い人生」と思えるよう、これからも自分の行動をこまめにチェックしていこう。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:56| 自分 | 更新情報をチェックする

2015年05月25日

山中温泉、鶴仙渓遊歩道で上を見上げた

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(GR DIGITAL公式ブログ トラックバック企画「草木」に参加)
posted by 柳屋文芸堂 at 16:28| 自然 | 更新情報をチェックする

2015年05月24日

嫉妬から得られたもの

 若い頃はずいぶん色んな人に嫉妬した。
 自分より綺麗な人、なんてのは割とどうでも良くて、自分にない才能や能力のある人が妬ましかった。
 文学部に進まなかったのも、自分より文才のある人たちに出会って筆を折るのが怖かったから。

 若い心は敏感過ぎて、何かと不便だった。
 でも、嫉妬から得られたものもけっこうある気がする。

 自分にないものを持っている人がいたら、まずは観察した。
 普段、どんなことをしているか?
 例えばその人がSFの本をよく読んでいたら、まねして同じ本を読んだ。

 同じことをすれば、すぐにその人の才能が手に入る、なんて訳がない。
 一挙手一投足全て同じにしたって、きっと無理だろう。
 その人と私は違う人間なんだから。

 その代わり「私の頭や心が受け取るもの」が必ずある。
 そうやって嫉妬がきっかけで始めたことから、沢山の知識を得た。
 妬ましさが、知識を吸収する力を強くしていた。

 嫉妬してしまうのが辛い、と感じている人は、とりあえずその気持ちを利用してしまえば良い。
 嫉妬力が弱まったら使えなくなってしまう技なので、あるうちに大切にして。

 私の場合、歳を取ったら嫉妬しなくなったのだけど、これは多くの人に当てはまることなのかしら?
 おばさんって本当にラクで良いと、しみじみ思います。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 21:50| 自分 | 更新情報をチェックする

恋愛における役割分担

 同性愛用語で「タチ・ネコ」というのがあるけれど、
(性行為において、タチ:攻める役、ネコ:受ける役)
 異性愛でもタチ・ネコがあるんじゃないかな、と思う。
 女がタチ、男がネコのカップルとか、男女ともにネコとか。

 もっと言うと、タチ・ネコはあんまり固定しない方がうまくいくような気がする。
 性行為だけじゃなく恋愛全般で、片方がずっと能動的であり続けたり、受動的であり続けたりするのはしんどい。
 デートの行き先を常に男が決めるとか、多少の不満があっても女は我慢し続けるとか。

 今時そんな男女いない、と言われるかもしれない。
 でも私はずいぶん長い間、
「受動的でいないと、男の人はイヤなんじゃないかな?」
 と考えていた。

 好きな男に、
「受動的でいなさい」
 と命令されたことなんてない。
「女なんだから『女役=受ける役』でいなきゃいけないのかな?」
 と、自分で勝手に思い込んでいたのだ。

 恋愛のやり方なんて、誰も教えてくれないし。

 10年の結婚生活を含め、好きな人との付き合いで私が学んだのは、
「思い込みは、事態を悪化させることはあっても、解決することはない」
 男だから、女だから、というのはいったん忘れて、相手と真剣に向き合った方が良い。

 自分もその人も世界でただ一人の人間で、一般論なんて役に立たない。
 問題が起きたらそのつど二人なりの答えを出していかなければいけない。
 面倒でも、そうやって相手を知って、自分のことも知ってもらって作り上げた関係は、たとえようもないほどあたたかい。

 人間はどうして「役割」にこだわっちゃうんでしょうね?
 毎回考えるより、役になり切った方が決定が早くてラクだから?
 役に不満を持ってイライラがつのる方が大変な気がするんだけどな。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 01:02| 恋愛 | 更新情報をチェックする