2015年11月29日

映画「料理人ガストン・アクリオ 美食を超えたおいしい革命」感想

 ペルーの料理人、ガストン・アクリオを追ったドキュメンタリー。
 あの人はすごい! 国を変えた!! という賛辞がやたらに出てくるのだけど、どうすごいのか、どう国を変えたのか、もうちょっと具体的に映して…… って感じでした。

 ガストン・アクリオを知っていて当然の人たちのための映画みたい。
 私は全然知らないので面食らった。

 どうやら、高級料理と言えばフランス料理だったペルーで、美食家も満足させるペルー料理(ペルービアン)を確立した人らしい。
 日本では、自国の料理(和食)がフランス料理とタメ張ってる。
 それって当たり前のことじゃなくて、負けちゃう国も少なくないんだ。
 自分の国の料理が一番口に合うだろうに、不思議な気がする。

 キヌア畑が印象的だったな。
ここに写真もあり。民族衣装を着た女性たちが可愛い!)
 カサカサに乾いた大地に実るの。

 こんなところで穀物を収穫出来るなんて、とDちゃんに話したら、
「稲だってあんな水浸しのところで育って、変だよね。普通、根腐れするよね」
 とのこと。確かに。
 食べ物は土地や気候と強く結び付いているんだ、と改めて思った。

 まずはペルー料理を食べてみないとな。
 作り方から想像するに、さっぱりしていてけっこう辛そう。
 ごま油を使うのが意外でした。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:53| 映画・映像 | 更新情報をチェックする

2015年11月28日

映画「氷の花火〜山口小夜子」感想

 ファッションモデル、山口小夜子のドキュメンタリー。
 小夜子さんの映像はどれも、美し過ぎて涙が出るほど美しかった。
 美人、というと顔の造りの問題のように思いやすいけれど、目鼻の形以上にその人の「振る舞い方」が重要なのではないか。
 
 歌舞伎舞踊の上手い踊り手は、着物のすそやたもとの先まで神経が通っているかのような動き方をする。
 自分が踊るのと同時に、着物(布)も踊らせるのだ。

 小夜子さんは洋服でそれをやる。
 着物と違って洋服はそれぞれ形が違うから、毎回やり方を考えていたのだろう。
 服というのは着る人の工夫によって、こんなにも活き活きしたものになるのか。
 綺麗な人が綺麗な服を着ている、というのを遥かに超えて、全身を使って服を舞わせる芸術のようだ。

 美しく振る舞える人の顔を、美しく感じるのかもしれない。
 表情というのも振る舞いの一つなのかもしれない。
 とにかく「美しく生まれたから美しい」というだけではない。
 そこには「美とは何か」という探求があり、美に近付くための努力がある。

 私にとってはただただ憧れるだけの存在である「美女」の本質を垣間見られた。
 服を着こなす大切さも。

 もっと彼女の映像が見たいなぁ……
 写真ももちろん素敵です。
 それは「振る舞い」を瞬間的に凍らせたものだから。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 01:27| 映画・映像 | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

フジモトマサルさん

 イラストレーターで漫画家のフジモトマサルさんが亡くなったというニュースを聞いて驚き、悲しんでいます。
 慢性骨髄性白血病で、46歳だったそうです。
 「いきもののすべて」という本と、YEBISU STYLE(恵比寿ガーデンプレイスのフリーペーパー)に連載していた「ウール100%」という作品が大好きだった。

 最近では村上春樹の期間限定サイト「村上さんのところ」でイラストを付けていた。
「水丸さんがいなくなって寂しいけど、フジモトマサルなら動物得意だし(村上春樹もかなりの動物好き)作風も合ってる!」
 と嬉しく思っていたのに。

 悲しいよとDちゃんに伝えたら、
「亡くなる前にいっぱいイラストを描けて良かったね」
 との返事。ポジティブだな!

 確かに「村上さんのところ」には贅沢に、大量に作品を提供していた。
 村上春樹のファンだったのかな? 張り切っていたんだろうなと。

 本になった「村上さんのところ」、実はまだ買ってない。
 ご本人のサイトには、
「紙の本には50点あまりの1コマ漫画、4コマ漫画を描きおろし」
 とある。
 早めに買って、大事に読むからね〜!
 
posted by 柳屋文芸堂 at 01:36| 読書 | 更新情報をチェックする

2015年11月24日

村上春樹「職業としての小説家 第一回」感想

 「第一回」というのは「第一章」とほぼ同じ。
 講演形式で書かれているので「回」という単語を使ったようです。
 興味深い部分が多くあったので、章ごとに感想を書くことにする。
 まずは一部引用。

 小説家は多くの場合、自分の意識の中にあるものを「物語」というかたちに置き換えて、それを表現しようとします。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子(てこ)のように利用して、何かを語ろうとするわけです。

 自分そっくりの主人公を出して小説を書けないのは何故なんだろう、と不思議だった。
 年下だったり、男だったり、超能力を持っていたり、年齢・性別・能力・職業などが自分と違う主人公を、つい出してしまうのだ。
「知らない人格を描いて、他人について勉強するぞ!」
 と意気込んでやるのではなく、ごく自然に。

 自分と何かをズラさないと、小説は書きにくい。
 自分と違う人間のことなんて全然分からないから、想像しなければいけないことは多いし、調べることも増えるし、大変。
 自分について書けばそんな必要ないのに、なんでこんなことをしちゃうのかな? と。

 村上春樹のこの文章を読んで、このズレ(落差)が物語を動かしていたのか! と思った。
 確かにズレがあるからこそ想像するのだし、あれこれ調べるのだ。
 自分のことを想像したって何も出てこない(自分は自分でしかない)
 他人というのはこんなだろうか、あんなだろうか、という想像がコロコロ転がって、物語は大きくなってゆく。

 場所や境遇だって同じ。
 あの場所はこんなかな? こういう立場の人はどんな気持ちかな? コロコロコロ。
 何かをあまり知り過ぎると、かえって書けなくなったりする。
 でも知らないと書けないから、その塩梅はなかなか難しい。

 登場人物たちにしても、自分とは違うのだけど、同じ部分もある。
 知っている部分と知らない部分の両方がある。
 作者はその知っている部分に乗って、知らない部分を知っていく。
 知っていく力が物語を動かす力で、知ったことの記録が物語。

 小説を書く人間が、知らないものについて書こうとしてしまうのは当たり前のことなんだ。
 間違っているんじゃないか、変なんじゃないかという不安から逃れられる日は来ないんだ。

 それでも(だからこそ)沢山想像しよう。
 出来る限り調べよう。
 正しい形に近付けられるよう努力しよう。

 書き続けよう。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 10:45| 読書 | 更新情報をチェックする

2015年11月23日

へそから金貨が出る病気

 私の頭の中には、沢山の架空の人物が住んでいる。
 その人たちを登場人物にして小説を書く訳だけれど、小説の材料にするために彼らを作ったのではない。
 彼らがいるから、彼らを外に出すために小説を書くのだ。

 私は彼らの世界と現実の世界、半々で生きているので、100%現実で生きている人たちに比べると、かなりぼんやりしているのではないかと思う。
 こういうのって精神病の一種だろうかと、時々不安になる。

 しかし彼らが私に害を与えたことは一度もないのだ。
 現実の人間は私を傷付けたり、悩ませたり、困惑させたり、不愉快にしたり、嫌なことを色々してくる。
 けれども架空の人物たちは、絶対私にそんなことしない。

 私が喜んでいると一緒に喜んだり、私が悲しんでいると一緒に泣いたりする。
 彼らがいるおかげでずいぶん心が楽になっている気がする。
 まあ、そっちの世界に行っちゃって家事がおろそかになったりするのは少し困るかな。

 へそから金貨が出る病気がもしあったとしたら、それを治すべきだろうか。
 確かに異常事態だ。
 でも治してしまったら、金貨が出てこなくなる。

 私のへそからは残念ながら(?)金貨は出てこない。
 しかし頭の中には次々に実在しない誰かがやって来て、何年も住み続け、お互いに知り合って社会を築いている。
 彼らを描いた小説はあんまりお金にならない(ほんと、残念ながら……)
 けれどもお金以上の何かを私にくれる。

 私はこの不思議な病気を、大切に守ろうと決めている。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 01:23| 自分 | 更新情報をチェックする

2015年11月22日

小説の利点

 「屍者の帝国」「ハーモニー」と立て続けに原作ありの映画を見て、「ノルウェイの森」の映画の感想なども読んで感じたのですが、表現形式(映画・小説)によって表しやすいものってずいぶん違うんだなと。
 他の形式に変換された時に「何が失われるか」を確認すると、小説の利点が浮き彫りになる。

 小説「屍者の帝国」の一番の魅力である「円城塔の奥ゆかしい愛情」は、映画版で完全に別のものに置き換わっていたからね……
 小説は、人柄や愛情の微妙な部分を、事細かに伝えるのに向いているのかもしれない。
 映画では「セリフ」「さりげない仕草」「表情」くらいしか使えず、時間にも制限がある。
 ところが小説では、セリフと描写にほぼ無限の言葉を尽くせるし、エピソードも入れ放題。
 すごいな!

 映画と原作を見比べたことで、小説への愛情が増した気がする。
 映画がダメというのではなく、それぞれ得意分野が違うということ。
 小説の可能性は大きい。
 小説の利点をしっかり活かしている人たちの文章から学び取って、私もそこで存分に楽しみたい。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 02:17| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年11月21日

恋愛小説

 どうしても誰かと「ノルウェイの森」の話がしたくて、Dちゃんにあらすじを説明した。
 終わり近くの主人公とレイコさんの場面が好きなので、そこに至るまでの経緯を。
 意外と10分くらいでまとめられるものなのね。

 私は、
「話せて満足!」
 って顔になったらしい。

 「ノルウェイの森」を読んで、恋愛小説はこんなにも多くのことを、深く、彩り豊かに表現出来るのかと驚いた。
 「恋愛」というものを狭くとらえてはいけない。
 大きく広く「愛」「人と人のつながり」を描けるのだ。

 書けるうちにいっぱい恋愛小説を書こう。
 と言いつつ、諸事情あって現在執筆中なのはSFなのだけど。
 ちゃんと終わらせられるかな……
 
posted by 柳屋文芸堂 at 04:43| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年11月20日

村上春樹「ノルウェイの森」感想

 すごい今さらですが、村上春樹の「ノルウェイの森」を読みましたよ。
 小学生の頃にベストセラーになり、「村上春樹」という作家がいることを知ったのでした。
 懐かしい。

 大人になってから私は熱狂的な村上春樹ファンになったのだけど「ノルウェイの森」だけは避けていた。
 何となく、悲しい話なんじゃないかな…… という予感がして。

 確かに予想していた通り、悲しい部分も沢山あった。
 でも思ったより笑える場面やセリフが多くて楽しく読めた。
 何度も声を出して笑ったよ。

 性描写が多いし笑えるしで、何だか春画展を思い出した。
 春画に描かれる性は、一般的なエロスに加えて、呪術的な要素もある。
 「ノルウェイの森」に出てくる性行為も、一般的なそれより意味が広い気がした。

 愛を伝えたり、性欲を満たしたりするだけでなく、
 相手とどう関わるか
 世界とどう関わるか
 人生をどうしていきたいか(=どんな風に生きたいか)
 ということも含んでいる。

 それぞれの事情や痛みを抱えた登場人物たちが言葉と性でつながろうとし、良い結果や悪い結果を受け止めながら生きていく姿は切実で、読み終えた時、彼らが私の心の住人になっているのを感じ、深く満足した。

 私が一番好きなのは突撃隊(←人名。あだな)
 元気でいると良いね……
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:40| 読書 | 更新情報をチェックする

2015年11月19日

反劇的

 この数年、ドキュメンタリー映画を見に行くことが増えた。
 事実だから、ではなく、劇的じゃないところが好きなんだよね。
 展開が地味で、坦々かつ淡々と進んでいくのを見ていると、心が落ち着く。

「人を楽しませるものはドラマチックじゃなきゃいけない」
 と思いがち。

 でも私は、
「わざわざ心を揺り動かさなくても実のある話」
 を求めている気がする。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 02:08| 映画・映像 | 更新情報をチェックする

2015年11月17日

「何かを強く否定する」ということは

 権威を強く否定する人が、権威を求めていたり、
 男女差別を強く否定する人が、男は強いと信じていたり、
 不平等な社会を強く否定する人が、不平等な社会を築き上げてその中で強者になったり、
 世の中は矛盾だらけだ。

「何かを強く否定する」
 ということは、
「その何かに強くこだわっている証拠」
 なのだから、当たり前といえば当たり前の話。

 しかし私は長い間、この原理が分からなくて、そういう人たちに出会うたび、
「何なの??」
 と戸惑っていた。
 本人たちは矛盾に気付いていない様子で、ためらいもなく主張をするから、気圧されてしまう。

 こういう矛盾は何かを生み出すのだろうか。
 周囲を困惑させ、本人たちの心をじわじわと窮屈にするだけなんじゃないか。

 私の中にもこういう矛盾があるのかもしれない。
 何かを強く否定しそうになったら、その何かに強くこだわっていないか、そのこだわりが自分を不幸にしていないか、冷静に確認するようにしよう。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 11:51| 考え | 更新情報をチェックする