1月24日の「UR LIFESTYLE COLLEGE」というラジオ番組に、大好きなイラストレーター、米津祐介さんが出ていた!
ラジコのタイムフリーで聴けるのは今日まで。
昨日気付いて聴いた。危うく聴き逃すところだった。
2021年01月31日
米津祐介さんがラジオに!
posted by 柳屋文芸堂 at 10:43| ラジオ
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2021年01月18日
平野レミ・和田誠「作って幸せ・食べて幸せ」

新版 平野レミの作って幸せ・食べて幸せ - 平野 レミ, 和田 誠
この本、料理の名前が全て、和田誠さんのデザインなんですよ!!
本のタイトルなどでよく見かける、あの字。あれが全ページにあるの。
めちゃくちゃ贅沢。
あちこちに配されたイラストも可愛い。
眺めているだけで幸せ〜♪
もちろんレシピも活用しています。
おととい作った「ホットたらチゲ」美味しかったな。
posted by 柳屋文芸堂 at 18:57| 料理・食べ物
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心のおじや
病気になってしまった。
病名は伏せるが、発病前の一年間にストレスが多いと、発症しやすくなる病気らしい。
この一年、何があったっけ?
コロナだよ……!!
早く治すために、ストレスのない暮らしをしなければ。
最も望ましいのは「コロナ禍が起きなかった平行世界の埼玉へ行く」
平行世界という別世界に行くのだから、岡山とかリヴィエラとか全然知らない街で新生活を始めても良いのだけれど、私は変化が苦手なのだ。
子供の頃から馴染みの埼玉。「コロナが存在しない」という一点だけが現在と違う「この街」で生活したら、きっと病は癒えるだろう……
と、やれない対策を考えても仕方ない。
コロナ禍は私がどうこうするには大き過ぎる。別の部分でストレスを減らすほかない。
まず、ニュースから離れようと決めた。
今日の感染者は〇〇人、政府は△△をした(しなかった)
そんなコロナ関連のニュース全てが、私の心を重くしていた。
緊急事態宣言など、大きな変化があったら教えてとダンナに頼み、ニュースサイトを見るのをやめ、ラジオのニュース番組を聴くのをやめた。
するとどうでしょう!
Twitterのトレンド欄にもニュースは現れるし、気楽なトーク番組の合間にもニュースは流れる。
こちらから意識して見聴きしなくても、ニュースは私の脳内にどしどし侵入してくる。
これは…… ニュース制限をする前は、明らかに過剰摂取だった。
テレビを持っていない私でさえこうなのだから、現代において情報は「不足」より「摂り過ぎ」を心配すべきものなのではないか。
糖尿病や高脂血症に似た構造だ。心の生活習慣病。
私は長年小説書きを趣味にしているのだが、それもしばらく休むことにした。
小説の準備で読む資料本は、文章が硬く、読むのに骨が折れるものが多い。
元気な時なら「楽しい苦労」だ。しかし今は、とにかく心の負担を減らし、病気の治癒を最優先しなければ。
資料本を読むのは諦めても、「全ての読書をやめよう」とは考えなかった。
それはかえってストレスになる。
読書は続けたい。
心身が弱った時に読むべき本とは、どんな本だろう。
私の場合、物語は一切ダメだ。
続きはどうなるだろうと、ハラハラ・ドキドキするのは、元気な時しか出来ない。
ハラハラ・ドキドキしたくないのに、つまらないのはイヤ!
穏やかな面白さ、深みや豊かさは感じたい。
温かくて、食べやすく(読みやすく)それでいてちゃんと栄養にもなるような。
わがまま言うんじゃありません! と自分で自分を叱りたくなる条件。
今の私が求める本を「おじや本」と名付けた。
おじや本は、そう沢山はない。が、ゼロでもない。
あれこれ買って読んでみて、小川洋子さんのエッセイ集が最も「おじや度」が高かった。
平野レミさんの本も、素直な言葉が心にすっと入ってきた。
小川洋子さんも平野レミさんも「かつて女性が担っていた、家庭内の仕事」を肯定してくれるのが良い。
様々な事情が重なり、不本意ながら専業主婦になってしまった私にとって「かつて男性が担っていた、外の仕事こそ本当の仕事」という考えに触れるのは辛いのだ。
逆に、家庭内の仕事を肯定しているからこそ、小川洋子さんや平野レミさんの文章にイラッとする人もいるのかもしれない。
料理の「おじや」は誰にとってもおじやだが、「おじや本」は読者の思想や嗜好によって、おじやにならなかったりもするのだろう。
私は私にとっての「おじや本」しか語れない。
おじや本を求め、エッセイの名手と言われる人たちの本を何冊か買ってみた。
佐野洋子さんの本はスパイスが強すぎる。
ガンになって長生きしないと分かり、老後資金でジャガーを買い「最後に乗る車がジャガーかよ、運がいいよナア」(佐野洋子「役にたたない日々」より引用)
文章の迫力がすごい。私はそんな風に病気に立ち向かえない、としょんぼりしてしまう。
魅力があるのは確かだから、読まないのはもったいない。
おじや本とおじや本の間に、数ページだけ読み進める。
おじやに七味をかけるみたいに。
平松洋子さんの本は軽妙で、憂鬱な病院の待ち時間に読むのにぴったりだった。
ところでエッセイの名手の「洋子率」高くないですか?
こうなったら内田洋子さんの本も読まなければ。
コロナ禍や病気のせいで「出来なくなったこと」を考えがちだった。
本は家でも読める。
「おじや本かも!」
と期待をこめて知らない作者の本を買い、好きな作家が増えた。
今、この状況、この弱った心と体で「出来ること」を考えたい。
私もいつか、誰かにとってのおじやになるような文章を書けるだろうか。
(終わり)
病名は伏せるが、発病前の一年間にストレスが多いと、発症しやすくなる病気らしい。
この一年、何があったっけ?
コロナだよ……!!
早く治すために、ストレスのない暮らしをしなければ。
最も望ましいのは「コロナ禍が起きなかった平行世界の埼玉へ行く」
平行世界という別世界に行くのだから、岡山とかリヴィエラとか全然知らない街で新生活を始めても良いのだけれど、私は変化が苦手なのだ。
子供の頃から馴染みの埼玉。「コロナが存在しない」という一点だけが現在と違う「この街」で生活したら、きっと病は癒えるだろう……
と、やれない対策を考えても仕方ない。
コロナ禍は私がどうこうするには大き過ぎる。別の部分でストレスを減らすほかない。
まず、ニュースから離れようと決めた。
今日の感染者は〇〇人、政府は△△をした(しなかった)
そんなコロナ関連のニュース全てが、私の心を重くしていた。
緊急事態宣言など、大きな変化があったら教えてとダンナに頼み、ニュースサイトを見るのをやめ、ラジオのニュース番組を聴くのをやめた。
するとどうでしょう!
Twitterのトレンド欄にもニュースは現れるし、気楽なトーク番組の合間にもニュースは流れる。
こちらから意識して見聴きしなくても、ニュースは私の脳内にどしどし侵入してくる。
これは…… ニュース制限をする前は、明らかに過剰摂取だった。
テレビを持っていない私でさえこうなのだから、現代において情報は「不足」より「摂り過ぎ」を心配すべきものなのではないか。
糖尿病や高脂血症に似た構造だ。心の生活習慣病。
私は長年小説書きを趣味にしているのだが、それもしばらく休むことにした。
小説の準備で読む資料本は、文章が硬く、読むのに骨が折れるものが多い。
元気な時なら「楽しい苦労」だ。しかし今は、とにかく心の負担を減らし、病気の治癒を最優先しなければ。
資料本を読むのは諦めても、「全ての読書をやめよう」とは考えなかった。
それはかえってストレスになる。
読書は続けたい。
心身が弱った時に読むべき本とは、どんな本だろう。
私の場合、物語は一切ダメだ。
続きはどうなるだろうと、ハラハラ・ドキドキするのは、元気な時しか出来ない。
ハラハラ・ドキドキしたくないのに、つまらないのはイヤ!
穏やかな面白さ、深みや豊かさは感じたい。
温かくて、食べやすく(読みやすく)それでいてちゃんと栄養にもなるような。
わがまま言うんじゃありません! と自分で自分を叱りたくなる条件。
今の私が求める本を「おじや本」と名付けた。
おじや本は、そう沢山はない。が、ゼロでもない。
あれこれ買って読んでみて、小川洋子さんのエッセイ集が最も「おじや度」が高かった。
平野レミさんの本も、素直な言葉が心にすっと入ってきた。
小川洋子さんも平野レミさんも「かつて女性が担っていた、家庭内の仕事」を肯定してくれるのが良い。
様々な事情が重なり、不本意ながら専業主婦になってしまった私にとって「かつて男性が担っていた、外の仕事こそ本当の仕事」という考えに触れるのは辛いのだ。
逆に、家庭内の仕事を肯定しているからこそ、小川洋子さんや平野レミさんの文章にイラッとする人もいるのかもしれない。
料理の「おじや」は誰にとってもおじやだが、「おじや本」は読者の思想や嗜好によって、おじやにならなかったりもするのだろう。
私は私にとっての「おじや本」しか語れない。
おじや本を求め、エッセイの名手と言われる人たちの本を何冊か買ってみた。
佐野洋子さんの本はスパイスが強すぎる。
ガンになって長生きしないと分かり、老後資金でジャガーを買い「最後に乗る車がジャガーかよ、運がいいよナア」(佐野洋子「役にたたない日々」より引用)
文章の迫力がすごい。私はそんな風に病気に立ち向かえない、としょんぼりしてしまう。
魅力があるのは確かだから、読まないのはもったいない。
おじや本とおじや本の間に、数ページだけ読み進める。
おじやに七味をかけるみたいに。
平松洋子さんの本は軽妙で、憂鬱な病院の待ち時間に読むのにぴったりだった。
ところでエッセイの名手の「洋子率」高くないですか?
こうなったら内田洋子さんの本も読まなければ。
コロナ禍や病気のせいで「出来なくなったこと」を考えがちだった。
本は家でも読める。
「おじや本かも!」
と期待をこめて知らない作者の本を買い、好きな作家が増えた。
今、この状況、この弱った心と体で「出来ること」を考えたい。
私もいつか、誰かにとってのおじやになるような文章を書けるだろうか。
(終わり)
posted by 柳屋文芸堂 at 22:32| 考え
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