2012年08月01日

現代美術、「分かる」の意味を考える

 突然ですが、私は現代美術が大好きです。
 この間、東京都現代美術館の特撮展に行った時も、同じチケットでしっかり常設展も見てきました。

 現代美術の何が良いって、価値がよく分からないところ。
 美術館に飾ってあるから大切にされているけど、ゴミ捨て場に置いてあったら誰も顧みないんじゃないか……
 みたいなことを考え始めると、自分の中の何かがグラグラ揺れ始める。

 価値って何?
 美しさって何?

 実際問題、現代美術は古典絵画等に較べると価格の変動が激しいと思う。
 今は評価されているけれど、10年後、20年後に同じ扱いを受けているかは誰も予測出来ない。
 価値があるんだか無いんだか、何が描いてあるんだかさえよく分からない。
 そんな物を、あたかも貴重な品であるかのようにしげしげと眺める。

 奇妙な遊びだ。
 真剣にやればやるほど楽しい気分になってきて、微笑みがもれる。

 現代美術は「分からない」とよく言われる。
 確かに何が描いてあるのか、何を主張しているのか、判別出来ないものが多い。
 しかし私たちは、古典絵画をちゃんと「分かって」いるのだろうか。

 ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を見て、
「女の人が右手を上げている」
 と言ったら、単なる目の検査だろう。
 民衆の怒声や、倒れた者の沈黙を聞いて初めて、それは美術鑑賞になるのだと思う。
 作品の背景や画家の人生を知れば知るだけ、聞こえてくるものも増えるはずだ。

 何が描いてあるのか分かっても、それは理解したことにはならない。
 全ての芸術作品は謎を残したままそこに存在し、見るたび、知るたびに、様々な答えを与えてくれる。
 その謎部分の肥大したのが、現代美術と言えないだろうか。

 私が一番好きな現代美術は、フェリックス・ゴンザレス=トレスの飴ちゃん持って帰れるやつです。
 森美術館でこの作品について暑苦しく語っていたら、目の前にその展示が出てきてびっくりしたことがあります。
 床にザーッと飴を並べただけの作品なのに、切なくて胸がきゅんとする。
 不思議でしょ?
 またどこかで会いたいな。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:05| 美術 | 更新情報をチェックする