2015年01月20日

性別という枠の外側

 私は小説の中に同性愛者や性同一性障害の人を出すけれど、自分は異性愛者で性同一性障害ではないので、そういう少数派の人たちの苦労を実際に味わった訳でもないのに、書いちゃって良いのかな…… という迷いがいつもあった。

 でも小説の行数が増え、登場人物がどんな人たちか明らかになるにつれ、
「この人は自分をゲイと言っているが、ゲイの多数派(←これも想像だけど)とは微妙に違う気がする」
「性同一性障害と紹介する他ないけれども、聞いているのと何か違う」
 という風に思う回数が増えてきた。

 同性愛者や性同一性障害を正しく描けていない、とも言えるのだけど、そもそも「正しい同性愛者や性同一性障害の人」って何だろう。
 男と女に色んな人がいるように、同性愛者や性同一性障害の人にも色んな人がいるはずで、もっと言うと、そういう枠のどれにも入れないという人も少なくないのではないか。

 私は子どもの頃から女の子らしくするのが苦手で、かと言って男らしい訳でもなく、性別というものの前で途方に暮れていた。
 性別ごとにやるべきこと、やるであろうこと、やった方が良いとされること、等が決まっていて(例えば化粧とか)そういうのを何でやらなければいけないのかがよく分からなかった。

 私が描きたいのは男でも女でも同性愛者でも性同一性障害の人でもなく、どの枠もいまいちしっくり来ない、という人たちなのかもしれない。
 この枠は恋愛する時と社会生活する時にはっきりと壁になって人の前に立ちはだかる。
 これまでに何度も困ったり、不安になったりした。

 異性愛者が同性愛者を描く、と考えると難しい気がするけど、枠に入れない人が枠に入れない人を描く、となれば自然な行為と言えるのではないか。
 それは別の形に変換された私の物語だ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:26| 執筆 | 更新情報をチェックする