2015年01月31日

(自分にとって)正しい描写を見つけ出す

 生きていて欲しかった
 死なないで欲しかった
 生きていてもらいたかった
 死なないでもらいたかった

 全てほぼ同じ意味なのだけど、登場人物が言いたいことに最も近くて、リズムや流れが前後の文章に合うのはどれだろう…… と20分くらい考えていた(最終的に「生きてもらいたかった」に決定)
 私は小説書きの時間の9割をこういう言葉の選択に使ってしまう。

「大意は変わらないんだから、適当に決めて話をどんどん進めれば良いのに……」
 と思われるだろうし、自分でも、
「力を入れるべきなのはそこか?」
 と長年疑問に感じている。

 しかし、例えば世の中の絵描き全てが、
「何が描いてあるか分かれば良いんだから、適当に描いてさっさと完成させちゃおう」
 と目っぽい目、鼻っぽい鼻、を雑に描き続けていたら、美術史はとんでもないことになっていたよね。

 何でそんなのが気になるの? と他人が首をひねるようなことにウンウンうなり続けた結果が、今残っている芸術なのだ、きっと。

 いくつか前の記事(これ)で三味線のお稽古では先生が「問題のあるところを指摘して」くれると書いた。
 どうしてそういう指導が出来るかというと「正しい演奏がどんなものか」を知っているから。

 小説でも良い先生に巡り合うことは可能なのだろう。
 けれども基本的には、自分自身で問題のあるところを見つけ出して直していくしかない。
 何故なら「完成すべき小説の形」を知っているのは作者だけだから。

 生徒であると同時に、自分を指導出来る優秀な先生になること。
 生徒としての忍耐力と、先生としての鋭さが高ければ高いほど、小説の完成度は上がるのだと思う。

 そして書き続けるためには、自分という先生につぶされないように。
 言葉というのはもともと、完璧に演奏することなど出来ない、難しい楽器なのだから。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:41| 執筆 | 更新情報をチェックする