私には、
「素晴らしい作品を書く才能」
は無いけれど、
「評価されなくても書き続ける才能」
があるんだな〜 と最近思う。
小さな文学賞をもらったことはあっても、基本的に鳴かず飛ばずで、そろそろ小説書きなんて面倒で報われない作業、イヤになったっておかしくないのに、全然ならない。
心の中にいる登場人物を見つめ、彼らを表すための言葉を探すのは、何年やっても飽きないし、いつだって楽しい。
若い頃は「小説を書く」ということをどうとらえたら良いのか分からなかった。
それは自分にとって本当に大切な行為で、軽い気持ちでやっているんじゃないんだ! ということを周囲に示すために、書いた作品はほぼ全て文学賞に投稿していた。
でも実を言うと、
「小説家になりたいのか?」
と自問すると、答えはボワーっと霧の中だった。
本気で小説家を目指す人は、
「ホテルで缶詰め(部屋にこもって原稿を書かされる状態)」
に憧れたりするらしい。
そんなの、私は絶対やりたくない。
この一年、芸術について考える機会が多くあり、その中ではっきり分かった。
私は小説家になるためではなく「発狂しないために」小説を書いている。
評価されなくても書き続けられたのは、評価されるのが目的ではなかったからだ。
得体の知れない物事であふれ返るこの世界で、脆弱な精神を抱え、不安や困惑に押しつぶされずに生きていくのは本当に大変だった。
「処理しきれないもの」を常に物語の形で排出し、心をどうにかまともな状態に保っていたのだ。
プロになるかならないか、お金を稼げるか稼げないか、という点に悩み過ぎて、「小説を書く」という行為が持っている治癒力を生かせてない人が多くいる気がする。
まずは心をまっさらにして、普通に暮らし、そこで見つけたことを書くために必要な言葉を探していけば、ゆっくりと糸はほぐれていくのではないか。
放り出されて誰も顧みない、沢山のこんがらがった物事を見つめながら思う。