2015年11月24日

村上春樹「職業としての小説家 第一回」感想

 「第一回」というのは「第一章」とほぼ同じ。
 講演形式で書かれているので「回」という単語を使ったようです。
 興味深い部分が多くあったので、章ごとに感想を書くことにする。
 まずは一部引用。

 小説家は多くの場合、自分の意識の中にあるものを「物語」というかたちに置き換えて、それを表現しようとします。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子(てこ)のように利用して、何かを語ろうとするわけです。

 自分そっくりの主人公を出して小説を書けないのは何故なんだろう、と不思議だった。
 年下だったり、男だったり、超能力を持っていたり、年齢・性別・能力・職業などが自分と違う主人公を、つい出してしまうのだ。
「知らない人格を描いて、他人について勉強するぞ!」
 と意気込んでやるのではなく、ごく自然に。

 自分と何かをズラさないと、小説は書きにくい。
 自分と違う人間のことなんて全然分からないから、想像しなければいけないことは多いし、調べることも増えるし、大変。
 自分について書けばそんな必要ないのに、なんでこんなことをしちゃうのかな? と。

 村上春樹のこの文章を読んで、このズレ(落差)が物語を動かしていたのか! と思った。
 確かにズレがあるからこそ想像するのだし、あれこれ調べるのだ。
 自分のことを想像したって何も出てこない(自分は自分でしかない)
 他人というのはこんなだろうか、あんなだろうか、という想像がコロコロ転がって、物語は大きくなってゆく。

 場所や境遇だって同じ。
 あの場所はこんなかな? こういう立場の人はどんな気持ちかな? コロコロコロ。
 何かをあまり知り過ぎると、かえって書けなくなったりする。
 でも知らないと書けないから、その塩梅はなかなか難しい。

 登場人物たちにしても、自分とは違うのだけど、同じ部分もある。
 知っている部分と知らない部分の両方がある。
 作者はその知っている部分に乗って、知らない部分を知っていく。
 知っていく力が物語を動かす力で、知ったことの記録が物語。

 小説を書く人間が、知らないものについて書こうとしてしまうのは当たり前のことなんだ。
 間違っているんじゃないか、変なんじゃないかという不安から逃れられる日は来ないんだ。

 それでも(だからこそ)沢山想像しよう。
 出来る限り調べよう。
 正しい形に近付けられるよう努力しよう。

 書き続けよう。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 10:45| 読書 | 更新情報をチェックする