2017年06月08日

映画「武曲」感想



「言葉なあ、小僧。大事でもあるし、よけいなもんでもあるわな。禅の世界では、不立文字といって、言葉ではなく心、心という言葉になる以前の心で通じ合うのを理想とするんだ」

 というセリフがある映画の感想を、言葉で書くという矛盾。
 不立文字だということも不立文字という文字を使って伝えなければいけない歯がゆさ。
 私は禅のことをよく知らないけれど、そういう相反する欲求の中で真理を見出そうとする教えなのかもしれない。

 融(村上虹郎)は、ラップの歌詞を作るのが好きな高校生。
 冒涜、原罪など強めの言葉を連ねて叫んで「ある程度の」満足は得ているが、同時にどうしようもなく「何か」を渇望している。

 融は予告映像での印象よりずっと普通の男の子だった。
 言葉に惹かれ、言葉が完全なエクスタシーを与えてくれないことにいら立ち、もっと、もっととノートに言葉を書き殴ってゆく。
 融の飢えは私の心にも常にあるものだから、登場人物の中で誰よりも共感した。

 40歳になって高校生に共感するってどうなの…… 私、思春期終わってないのか…… と自分のことが心配になったが、それだけ虹郎くんの演技が自然で、観客が入り込みやすかったのだろう。

 剣道の師範で寺の和尚の光邑(柄本明)は融の満たされぬ思いと剣の素質を見抜き、酒に溺れ堕落した生活を送る研吾(綾野剛)に引き合わせる。

 この部分、物語としては展開に少々無理があるのだけど、
「光邑は研吾を救わなければと思い続けていて、それが出来る人間を探しており、融を見て即座に『こいつだ!』と気付いたんだ」
 と納得させてしまう柄本明はすごかった。

 研吾というか綾野剛はもう、飲み屋で同期生のおじさんに寄りかかっているだけでメチャクチャ色っぽい。
 寂しさで作られたような白い皮膚が、人間が発する熱を狂おしく求めている。

 言葉でも酒でも解決出来ない、欠けた魂を補完するため、融と研吾は嵐の夜に決闘をする。
 ここはほんと、

 君や来し我や行きけむおもほへず 夢か現(うつつ)か寝てかさめてか
(貴方が来て下さったのか、私のほうから逢いに行ったのかもよくわかりません。
 昨日の出来事は夢だったのか現実だったか、眠っていたのか目覚めていたのか……)


 という感じで、ラブシーンよりラブシーンだった。
(上記の和歌は映画に出てくる訳ではありません。伊勢物語からの引用)

 研吾がアルコール依存症なのもあって、画面に映っているものが現実なのか幻なのか分からないところがすごく良い。
 一番好きなのはお墓で老婆に話しかけられるところ。

「五悪というもんを知ってるか(中略)殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒……(中略)矢田部の人間は、五悪にまみれてるんじゃないか」

 こんなこと唐突に言ってくるおばあさんイヤだ!
 特殊効果を使っている訳でもないので、それはごく普通の老婆にも見えるし、研吾の自責の念が見せた幻覚とも受け取れる。

 鎌倉という街が、半分黄泉に沈んでしまった異境のように感じられ、ここでかけられた呪いはここで解かなければならないと、みな当然のこととして信じている。
 映画というより神話の登場人物の動きに近い。

 私は不立文字を体現したものとして美術や音楽を愛し、憎いのか好きなのか分からないと思いつつ言葉を綴り、そして映画は、
「言葉ではなく映像で見せてくれ!」
 と願いながら見ている気がする。

 武曲という映画は私の気持ちに応えてくれたとも言えるし、不満を残したとも言える。
 不立文字を希求しつつ、徹底してはいないので。

 この記事で黄色い字にしたセリフはパンフレットからの引用。
 パンフに完成台本を載せてくれたことが嬉しかった。
 感想を書きやすい!

 こうやって私は不確かな言葉で世界を切り刻み、悟りは遠い。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 16:39| 映画・映像 | 更新情報をチェックする