2021年01月03日

心のおじや

 病気になってしまった。
 病名は伏せるが、発病前の一年間にストレスが多いと、発症しやすくなる病気らしい。
 この一年、何があったっけ?
 コロナだよ……!!

 早く治すために、ストレスのない暮らしをしなければ。
 最も望ましいのは「コロナ禍が起きなかった平行世界の埼玉へ行く」
 平行世界という別世界に行くのだから、岡山とかリヴィエラとか全然知らない街で新生活を始めても良いのだけれど、私は変化が苦手なのだ。
 子供の頃から馴染みの埼玉。「コロナが存在しない」という一点だけが現在と違う「この街」で生活したら、きっと病は癒えるだろう……

 と、やれない対策を考えても仕方ない。
 コロナ禍は私がどうこうするには大き過ぎる。別の部分でストレスを減らすほかない。

 まず、ニュースから離れようと決めた。
 今日の感染者は〇〇人、政府は△△をした(しなかった)
 そんなコロナ関連のニュース全てが、私の心を重くしていた。

 緊急事態宣言など、大きな変化があったら教えてとダンナに頼み、ニュースサイトを見るのをやめ、ラジオのニュース番組を聴くのをやめた。
 するとどうでしょう!
 Twitterのトレンド欄にもニュースは現れるし、気楽なトーク番組の合間にもニュースは流れる。
 こちらから意識して見聴きしなくても、ニュースは私の脳内にどしどし侵入してくる。

 これは…… ニュース制限をする前は、明らかに過剰摂取だった。
 テレビを持っていない私でさえこうなのだから、現代において情報は「不足」より「摂り過ぎ」を心配すべきものなのではないか。
 糖尿病や高脂血症に似た構造だ。心の生活習慣病。

 私は長年小説書きを趣味にしているのだが、それもしばらく休むことにした。
 小説の準備で読む資料本は、文章が硬く、読むのに骨が折れるものが多い。
 元気な時なら「楽しい苦労」だ。しかし今は、とにかく心の負担を減らし、病気の治癒を最優先しなければ。

 資料本を読むのは諦めても、「全ての読書をやめよう」とは考えなかった。
 それはかえってストレスになる。
 読書は続けたい。
 心身が弱った時に読むべき本とは、どんな本だろう。

 私の場合、物語は一切ダメだ。
 続きはどうなるだろうと、ハラハラ・ドキドキするのは、元気な時しか出来ない。

 ハラハラ・ドキドキしたくないのに、つまらないのはイヤ!
 穏やかな面白さ、深みや豊かさは感じたい。
 温かくて、食べやすく(読みやすく)それでいてちゃんと栄養にもなるような。

 わがまま言うんじゃありません! と自分で自分を叱りたくなる条件。
 今の私が求める本を「おじや本」と名付けた。

 おじや本は、そう沢山はない。が、ゼロでもない。
 あれこれ買って読んでみて、小川洋子さんのエッセイ集が最も「おじや度」が高かった。
 平野レミさんの本も、素直な言葉が心にすっと入ってきた。

 小川洋子さんも平野レミさんも「かつて女性が担っていた、家庭内の仕事」を肯定してくれるのが良い。
 様々な事情が重なり、不本意ながら専業主婦になってしまった私にとって「かつて男性が担っていた、外の仕事こそ本当の仕事」という考えに触れるのは辛いのだ。

 逆に、家庭内の仕事を肯定しているからこそ、小川洋子さんや平野レミさんの文章にイラッとする人もいるのかもしれない。
 料理の「おじや」は誰にとってもおじやだが、「おじや本」は読者の思想や嗜好によって、おじやにならなかったりもするのだろう。
 私は私にとっての「おじや本」しか語れない。

 おじや本を求め、エッセイの名手と言われる人たちの本を何冊か買ってみた。
 佐野洋子さんの本はスパイスが強すぎる。
 ガンになって長生きしないと分かり、老後資金でジャガーを買い「最後に乗る車がジャガーかよ、運がいいよナア」(佐野洋子「役にたたない日々」より引用)

 文章の迫力がすごい。私はそんな風に病気に立ち向かえない、としょんぼりしてしまう。
 魅力があるのは確かだから、読まないのはもったいない。
 おじや本とおじや本の間に、数ページだけ読み進める。
 おじやに七味をかけるみたいに。

 平松洋子さんの本は軽妙で、憂鬱な病院の待ち時間に読むのにぴったりだった。
 ところでエッセイの名手の「洋子率」高くないですか?
 こうなったら内田洋子さんの本も読まなければ。

 コロナ禍や病気のせいで「出来なくなったこと」を考えがちだった。
 本は家でも読める。
「おじや本かも!」
 と期待をこめて知らない作者の本を買い、好きな作家が増えた。
 今、この状況、この弱った心と体で「出来ること」を考えたい。

 私もいつか、誰かにとってのおじやになるような文章を書けるだろうか。

(終わり)
posted by 柳屋文芸堂 at 22:32| 考え | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

楽譜と演奏≒文章と読み

 楽譜を見ながら演奏することで音楽が生まれるのと同じように、小説は文章を読むことで物語の世界が心に浮かぶ。
 楽器の演奏は先生に習って練習したりするが、「読み」はどうなのだろう。
 学校の国語の授業は「読みのレッスン」になっていたのか。

 もし国語の授業が有効に機能していなかった場合、読書しない人に向かって「本を読め」と言うのは、楽器の演奏をしたことのない人に「ピアノを弾け」と言っているのとほとんど同じなのではないか。

 楽器に素晴らしい演奏とダメな演奏があるように、読みにも上手・下手があるはず。
 しかし「読み」は脳内で行われることだから、外からは確認出来ない。
 楽器の腕前を上げるように、読み方を上達させるには何をすれば良いのか。

 活字離れというのは、
「文章を読み取って自分で物語を奏でるのが面倒」
 と感じる人が増えている、ということなのだろう。

「たまには本を読んでみませんか?」≒「久々にリコーダーを吹いてみませんか?」

 吹くかなぁ。読むかなぁ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:33| 考え | 更新情報をチェックする

2015年12月12日

いつでも、どこでも

 尊敬出来る人を見つけること。
 その人から沢山学ぶこと。
 尊敬しているからといって、その人に完璧を求めないこと。
 人間なのだから。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 03:09| 考え | 更新情報をチェックする

2015年11月17日

「何かを強く否定する」ということは

 権威を強く否定する人が、権威を求めていたり、
 男女差別を強く否定する人が、男は強いと信じていたり、
 不平等な社会を強く否定する人が、不平等な社会を築き上げてその中で強者になったり、
 世の中は矛盾だらけだ。

「何かを強く否定する」
 ということは、
「その何かに強くこだわっている証拠」
 なのだから、当たり前といえば当たり前の話。

 しかし私は長い間、この原理が分からなくて、そういう人たちに出会うたび、
「何なの??」
 と戸惑っていた。
 本人たちは矛盾に気付いていない様子で、ためらいもなく主張をするから、気圧されてしまう。

 こういう矛盾は何かを生み出すのだろうか。
 周囲を困惑させ、本人たちの心をじわじわと窮屈にするだけなんじゃないか。

 私の中にもこういう矛盾があるのかもしれない。
 何かを強く否定しそうになったら、その何かに強くこだわっていないか、そのこだわりが自分を不幸にしていないか、冷静に確認するようにしよう。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 11:51| 考え | 更新情報をチェックする

2015年11月04日

年齢と能力

 同人活動をしていると、自分より年下のすごい人に沢山出会って、
「老いては子に従え」
 みたいな気持ちになっている。
 まだ38歳なのに。子供もいないのに……

 実際には、年齢に関係なくすごい人はすごいし、すごくない人はすごくないんだろうな。
 当たり前だけれども。

 年齢を重ねることで、知識や経験を増やせるのは確か。
 一方で、あらゆることをどんどん忘れていくし、感性は鈍くなっていく。
 成長しつつ退化する日々。

 若い人は知識や経験が少ないが、成長しやすく退化しにくい。
 年を取った人は知識や経験は一応あるが、成長しにくく退化しやすい。

 どちらかが圧倒的に有利という訳ではない。
 ただ年齢に負けないためには、退化を超える成長をし続ける必要がある。
 そう考えると、年を取るのは大変だな。

 年上だ、というだけで偉そうな態度を取る人にもし出会ったら(割とよく出会うよね)
 その人は退化を勘定に入れていない愚か者か、退化を直視出来ない臆病者だ。
 無視して良いよ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:10| 考え | 更新情報をチェックする

2015年10月14日

世の中の不思議な法則

 お金にしろ、労力にしろ、出せば出すほど、
「ありがとう」
 より、
「もっと出せ」
 と言われることの方が多くなる。

 お金も労力も、ここぞ、という時以外はなるべく出さない方が良いな。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 03:07| 考え | 更新情報をチェックする

2015年07月12日

反抗の意味

 ロックやパンクはかつて、反抗を表明するための音楽だった。
 けれども一般に普及してしまった現在では、ただの音楽ジャンル名だ。
 それらを演奏しても、別に反抗にはならない。

 小説や漫画の性描写も、かつては反抗を表していたのかもしれない。
 今では性描写がありふれたものになり、登場人物たちが性的な行為を行っている、ということを示すだけで、それ以上の意味は持たない。

 かつて反抗の表現とされていたものをやれば、今でも反抗の行為になると信じている人が時々いて、驚く。
 反抗というのは相対的なものなので(既存のものがまずあり、それに反抗するものが現れ、それがまた既存のものになってゆく)反抗し続けたければ、永遠に新しいものに乗り換え続けなければいけない。
 
 反抗のために何かをしても、あっという間に反抗の意味が消えてしまう訳で、けっこう虚しい。
 私はもっと普遍的なものが欲しい。

 もちろん反抗の意味を持たなくなったロックやパンクや性描写でも、それ自体に魅力があれば何の問題もない。
 むしろそこからが本当の始まりだと思う。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:55| 考え | 更新情報をチェックする

2015年07月04日

夫婦ってみんな違う

 子供が欲しいと思っている奥さんと、子供は欲しくないと思っている旦那さん
 子供が欲しいと思っている旦那さんと、子供は欲しくないと思っている奥さん

 旦那さんも家事をやって欲しいと思っている奥さんと、仕事に専念したい旦那さん
 奥さんも外で働いて欲しいと思っている旦那さんと、働かずに家事に専念したい奥さん

 収入の多い奥さんと、収入の少ない旦那さん
 収入の多い旦那さんと、収入の少ない奥さん

 趣味に時間やお金を使いたい奥さんと、趣味はムダだと思う旦那さん
 趣味に時間やお金を使いたい旦那さんと、趣味はムダだと思う奥さん

 他にも親の介護をするか、家の中がどれくらい綺麗じゃないとイヤか、労働時間が長いか短いか、健康か病気か、等々、人それぞれに事情が違うのが二つ重なる訳で、夫婦というのは一組一組かなり違うし、それぞれ別の問題を抱えているのだと思う。

 それなのに、自分が知っている夫婦だけを見て夫婦について語る人が多いように感じる。
 たとえば危機を何度も乗り越えてきた夫婦がいたとして、現在危機におちいっている別の夫婦に適切なアドバイスが出来るかというと、無理だろう。
 個別の問題は個別に解決していくしかない。他人がどうこう言えるものじゃない。

 結婚している人たちは、
「夫婦は普通〇〇なはずなのに、私たちはどうして……」
 なんて考えない方が良い。夫婦に普通なんてないのだから。

 結婚していない人たちは、周囲の既婚者を見て不安や希望を抱いたりしない方が良い。
 あなたが見ている夫婦と、あなたが「なる」夫婦はまるっきり違うのだから。

 全組全部違うのだから。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:41| 考え | 更新情報をチェックする

2015年06月28日

三宅島のガイドマップ

 三宅島のガイドマップを持っている。
 たぶん、東京都内の島の特産品を集めたイベントで、三宅島のクサヤを買った時にもらったのだと思う。

「噴火の爪跡は島内各所で見ることができます。島全体がまるで火山博物館のようです。三宅島にお越しになった際には、地球の息吹を全身で感じてみてください」

 と書いてあって、
「三宅島、ポジティブだなぁ!!」
 と心打たれたのだけど、考えてみたら「日本」だって同じだよね。

「噴火の爪跡は国内各所で見ることができます。国全体がまるで火山博物館のようです。日本にお越しになった際には、地球の息吹を全身で感じてみてください」

 三宅島の避難指示が解除され、住民が島に戻ったニュースを見た時(2005年)
「どうしてわざわざ火山のそばで暮らそうとするんだろう」
 と疑問に思った。

 東日本大震災が起きた時に、ようやく三宅島の人たちの気持ちが少し分かった気がした。
 余震が続き、原発まで爆発したのに、国外に引っ越そうとまでは思えなかった。

 言葉、環境、制度、Dちゃんの仕事、実家の家族。
 私の根っこは良くも悪くも日本に深々と埋まっている。
 世界の基準で見たら三宅島と大して変わらない、火山国に住み続けるしかない。

 何もかもうっちゃって知らない国で暮らせたら、と時々夢見る。
 もちろん実現不可能なので、三宅島のポジティブさから学ぼうと思う。

 遠い場所で見つかるものもあれば、今いる場所でしか見つけられないものもある。
 きっと。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:26| 考え | 更新情報をチェックする

2015年05月31日

選ぶ力

 今は、情報や選択肢が処理しきれないほど多いから、
「自分にとって有益なものを選んでいく力」
 がかなり重要になっていると思う。

 何となく目の前にあるものを追っていたら、時間は吸い込まれるように消えてゆく。
 自分が求めているものと他人が求めているものは違うので、誰もあてには出来ない。

 私はいつも、これまでに見たり読んだり聞いたり経験したりしたものの中で、
「心に残っているのはどれか」
 をこまめに確認するようにしている。

 面白いと思いながら見たのに、意外に残ってないものもあるし、退屈だなーと感じながら読んだのに、場面がたびたびよみがえる、なんてものもある。
 そうやって、心に残るジャンルや人(作者など)や行動を選んでいく。
(心に残らないジャンルや人や行動を切り捨ててゆく)

 もし全知全能で死なない体なら、何もかも見たり読んだり聞いたり経験したり出来る。
 能力と時間には限りがあるから、選ばなければいけない(捨てなければいけない)

 選び方が、その人の頭や心を作ってゆく。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:36| 考え | 更新情報をチェックする