2015年04月12日

脳みそのOS

 村上春樹の期間限定サイトの、
「主人公の生き方は、受動的なのか主体的なのか」
 という質問と答えが興味深かった(この記事

 ドイツ人の質問者が村上春樹の小説の登場人物を「受動的」ととらえているのに対し、村上春樹は、

「僕は彼らが受動的であると考えたことはほとんどありません。僕の小説の主人公たちの多くは、世界の流れを「既にそこに生じたもの」として観察し、捉え、その展開の中に自分たちを有効に組み込ませようと、静かに(そしてむしろ主体的に)努めているのです」

 と反論している。

 こういう降りかかる火の粉をはらうような主体性って、西洋人には分かりにくいものなのだろうか。
 トラブルが起きた時に、正しい対処法を即座に思いつき、迷いなく実行出来る人なんていないんじゃないかな。
「間違っているだろうか? もっと良い方法があったんじゃないか?」
 と不安に感じながらも、どうにか工夫して乗り切っていく、というやり方(生き方)が自然であるように私は感じる。

 ドイツ人の質問者が登場人物の生き方に疑問を持つのと同じように、私は「西洋的主体性」ってどんなものなのかなぁ、と不思議に思った。
 「強い意志」というものがあったとして、それが正しいという保証はどこにあるのだろう。
「自分で選んだからには、これが正しいんだ!」
 と信じて積極的に進んでいくよう、子どもの頃からしつけられたりするのだろうか。

 育った国や文化が違うと、同じ人間でも「脳みそのOSが違う」ような印象を受けませんか?
 考え方の基盤に、どれだけ説明されても理解しにくく、納得出来ない部分がある。
(OSはoperating systemでコンピュータの基本プログラム。WindowsとかMac OSとかUNIXとか)

 場所だけでなく時代でもそう。
 江戸時代に作られた歌舞伎や文楽だって、
「何でこんなことするの……?」
 と首を傾げてしまう展開がいっぱい。

 でも、すぐには分からなくても、色んな脳みそのOSについて知りたいなー と私は思っている。
 自分のOSでは動かなかったソフトが、別のOSでなら問題なく使えるかもしれない。
 一つの見方では八方ふさがりだった悩みが、別の見方をすることによって解決の糸口を見つけられたりするかもしれない。

 一人一人の脳みそのOSは、全部微妙に違うのだろう。
 小説の登場人物というのは、
「一つのOSの例(考え方の例、生き方の例)」
 を見せてくれるのだと思う。

 私は大島さん(「海辺のカフカ」の登場人物)やかえるくん(「かえるくん、東京を救う」の登場人物)を時々頭の中に呼び出して、自分の生き方はこれで良いかな、と確認する。
 村上春樹が質問に対する答えの中で使っている「ロールモデル」というのはこういうことなのだろう。
 完全に模倣するのではなく、生きていく時に参考に出来る存在。

 実を言うと一番呼び出し回数が多いのは村上春樹の作品ではなく、ジョージ・オーウェル「1984年」の主人公、スミスだ。
 あんなに希望を与えてくれる小説って他にないよね。

 人間は物語がないと動けない。
 コンピュータにOSが必要なように。
 たとえそこに大きな欠陥があったとしても。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:42| 考え | 更新情報をチェックする

2015年03月21日

素晴らしくても完璧ではない

 宗教の教えというのは、長く人々の心の支えになってきたものなのだから、きっと素晴らしい点が沢山あるのだと思う。
 けれども「素晴らしい」=「完璧」ではない。
 全ての人間を幸福に出来るわけではない、下手したら一部の人を不幸にしてしまう教えだって、混ざっていることもあるのではなかろうか。

 神様が関わる物事は「素晴らしい」では済まされず、「完璧」であるという前提で進んでゆく。
 不完全な教えではなく、不幸になった人間の方が踏みつぶされ、もみ消される。
 このあたりの恐ろしさを、宗教関係者の人たちはどう考えているのだろう。

 神様が完璧である必要なんてないと思うのだけど。
 時々状況に合わせて修正が入ったって構わない、というかそういう修正を許す懐の深さがあった方が、神様らしいと感じる。

 宗教以外でも、人間は何かと完璧を求める。
 例えば「愛」 愛には確かに大きな力がある。
 例えば「金」 金には確かに大きな力がある。

 でも愛も金も、全てを解決出来るわけじゃない。
 それぞれ得意な分野・不得意な分野がある。
 それなのに、そんなことお構いなしに愛に走ったり金に走ったりする人たちがいる。

「完璧な何かがあって、それが自分を救ってくれる」
 という考え方はよほど魅惑的なのだろう。
 何だかハサミだけを使ってボタン付けをするような感じだ。
 目的ごとに、ハサミや針や糸をうまく組み合わせて使ったって良いだろうに。

 人間は完璧な何かを求めることで、人間の小賢しさから逃げ出したいのかもしれない。
 素晴らしくても完璧ではないこの世界から。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 22:32| 考え | 更新情報をチェックする

2015年02月17日

引っかかる

 人と話している時に感じる「違和感」って大事だな、と思う。
「何でこんなことを言ってくるんだろう?」
「嫌なわけではないけど、何となくモヤモヤするな」
 という感触。心に引っかかって消えない何か。

 その直後には頭をひねるばかりで解決しなくても、何年か後になって、
「あーっ! そういうことだったのか!!」
 と意味が分かったりする。
 その時に、相手の気持ちだけでなく、世の中の仕組みや、自分や他人が持っている思い込みなどにも気付いたりして、世界への理解が深まる。

 去年分からなかったことが、今年分かった。
 ということは、今年分からなかったことも、来年分かるかもしれない。
 歳を重ねることには希望があると思う。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:34| 考え | 更新情報をチェックする

2015年02月14日

偏ってるんですか?

 結婚前、バイト先で、
「うちで取っているのは朝日新聞です」
 と言ったら、
「偏ってるんですか?」
 と返され、二の句が継げなかったことがある。

 特に思想的に共鳴して読んでいた訳ではなく、たまたま朝日だっただけなのに。
 どの新聞の名前を言えば「偏ってない」と判断されたのだろう。

 デジタル大辞泉によると「偏る」の意味は、
「ある基準、または中心から外れて、一方へ寄る。傾く」
 基準とは何か?

 「その人の新聞の基準」はおそらく「自分が取っている新聞」だ。
 単純に「自分と違っているものは、偏っている」と判断してしまう人だったのだろう。

 偏っていない言説や編集というのはあり得るのだろうか。
 全ての言説や編集は「自分の側に」偏っているように思うのだが。

 「偏る」という言葉から、私は大勢の人間がフワフワ浮いている宇宙が思い浮かぶ。
 下も上も右も左もなくて(私にとっての右は、他の人にとって左だったり右下だったりする)
 あるのは「自分から見た方向」だけだ。

 そんな場所で、
「偏ってるんですか?」
 と尋ねられても、
「どっちに? どっちが?」
 となるよね。

 まあもちろん、そういう場所だからこそ、
「私こそが正しい」
 と思わないと安心出来ないのだろうけど。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:24| 考え | 更新情報をチェックする

2015年01月28日

「想像上の○○」と「実在の○○」

 何個か前の記事で「男性作家が描く女性への違和感」について書いたけど、物語の中で描かれる「片親の子」もけっこう変な感じがする。自分が片親育ちなので。

 とにかく、親を探しに行く奴が多過ぎる!!
 父なし子は父を、母なし子は母を求めて旅に出る。
 これは両親のいる人の発想なんじゃないかなぁ。

 彼らにとっては「母と父がいること」が当然で、そのどちらかが欠けていたら、
「足りない! 探さなきゃ!」
 となると思うのだろうけど、最初から片親の人は親一人が当然で、わざわざもう片方を見つけ出そうとは考えない、はず。
 面倒だもの。

 まあもちろん、
「私は親を探したい!」
 と言う片親の人もいるかもしれないし、全否定するつもりはないのですが。
 それ(親探し)ばっかりかよ、片親で困ることはもっといっぱいあるよ、とは思う。

 考えてみれば、すべての物事に「想像上の○○」と「実在の○○」が存在するんですね。
 日本人は「想像上のアメリカ人」を憎んで「実在のアメリカ人」を奇襲し、
 アメリカ人は「想像上の日本人」を恐れて「実在の日本人」に爆弾を落とした。

 「想像上の○○」というのは物事を効率よく考えるために生み出された便利な道具なのだろうけど、目の前のものをちゃんと見た方が良いんじゃない? という場面がずいぶん多いよな。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:02| 考え | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

男性内女性

 前に、
「男性作家(小説家だけでなく漫画家も)が描く女性に違和感を覚えることがある」
 という記事を書いたら(これ)友人が共感してくれてその話で盛り上がった。
 こう感じている女性はけっこう多いのではないか。

 「男性作家が描く女性」を「女性とは違う新たな性別」と考えた方が色々すっきりすると思う。
 「男性の脳内に住む架空の女性」ということで、とりあえずこれを「男性内女性」とでも呼ぶことにしよう(もっとシンプルな呼び名が欲しいけど)

 「男性内女性」が「実在の女性」と全く無関係な場所に存在しているならば、問題はない。
 実在の女性に対して、
「男性内女性らしく振る舞って欲しい」
 と望んだり、
「男性内女性が喜ぶようなことをすれば実在の女性も喜ぶ」
 と考えたりする男性がいるから迷惑するのです。

 「男性内女性」と「実在の女性」は全く別の生き物だ。
 どれくらい違うかというと「手裏剣を投げながらハラキリする日本人」と「普通の日本人」くらい違う。
「日本人なら日本人らしく手裏剣を投げて欲しい」
 なんて望まれたら困るだろう。

 しかし「男性内女性」は男性にとって必要な存在なのだと思う。
 まず、物語を書く時に男ばかり出す訳にいかない。
 実物から遠かったとしてもとりあえず「女性的な何か」を出さないと、世界の描写としてバランスが悪くなる。

 そしてたぶんこちらが一番大きな理由だと思うのだが、
「男性にとって、実在の女性が魅力的とは限らない」
 実在の女性なんて面倒臭いだけ。男性内女性の方がよほど可愛い。
 という気持ちは分からないでもない。

 何より大事なのは、「男性内女性」と「実在の女性」を混同しないことだ。
 もし実在の女性と付き合いたいと思ったら、男性内女性のことは一度忘れた方が良い。
 目の前にいるその人を第一に考えて欲しい。
 理解し合えない原因になるから。本当だよ。

 女性の側も、
「男性が描いているのは女性ではなく、男性内女性なんだ」
 と思えば、自分とは異なる種類の人物として楽しめるかもしれない。

 こっちだって女性内男性を抱えて生きているのだから、おあいこだ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:34| 考え | 更新情報をチェックする

2015年01月03日

嫌いなものの話ばかりする人

 嫌いなものの話ばかりする人、というのがいる。
 嫌いなものではなく好きなものの話をした方が楽しいのになぁ、と思うけれど、おそらく「嫌いなもの」には「引力(惹きつける力)」があるのだろう。
 嫌いなもののことばかり考えてしまうのをやめるためには、「好きなもの」を沢山見つけ、その引力に引っぱってもらって、嫌いなものから自分を引き離す必要があるのではないだろうか。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:34| 考え | 更新情報をチェックする