2015年02月27日

書くことの意味

 私には、
「素晴らしい作品を書く才能」
 は無いけれど、
「評価されなくても書き続ける才能」
 があるんだな〜 と最近思う。

 小さな文学賞をもらったことはあっても、基本的に鳴かず飛ばずで、そろそろ小説書きなんて面倒で報われない作業、イヤになったっておかしくないのに、全然ならない。
 心の中にいる登場人物を見つめ、彼らを表すための言葉を探すのは、何年やっても飽きないし、いつだって楽しい。

 若い頃は「小説を書く」ということをどうとらえたら良いのか分からなかった。
 それは自分にとって本当に大切な行為で、軽い気持ちでやっているんじゃないんだ! ということを周囲に示すために、書いた作品はほぼ全て文学賞に投稿していた。

 でも実を言うと、
「小説家になりたいのか?」
 と自問すると、答えはボワーっと霧の中だった。

 本気で小説家を目指す人は、
「ホテルで缶詰め(部屋にこもって原稿を書かされる状態)」
 に憧れたりするらしい。
 そんなの、私は絶対やりたくない。

 この一年、芸術について考える機会が多くあり、その中ではっきり分かった。
 私は小説家になるためではなく「発狂しないために」小説を書いている。
 評価されなくても書き続けられたのは、評価されるのが目的ではなかったからだ。

 得体の知れない物事であふれ返るこの世界で、脆弱な精神を抱え、不安や困惑に押しつぶされずに生きていくのは本当に大変だった。
 「処理しきれないもの」を常に物語の形で排出し、心をどうにかまともな状態に保っていたのだ。

 プロになるかならないか、お金を稼げるか稼げないか、という点に悩み過ぎて、「小説を書く」という行為が持っている治癒力を生かせてない人が多くいる気がする。
 まずは心をまっさらにして、普通に暮らし、そこで見つけたことを書くために必要な言葉を探していけば、ゆっくりと糸はほぐれていくのではないか。

 放り出されて誰も顧みない、沢山のこんがらがった物事を見つめながら思う。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:32| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年02月14日

贋オカマと他人の恋愛

 小説書き終わりました。
 まだ確認・訂正・加筆など作業が残っているので完成とはとても言えないのですが、一応オチがついたかな? と。
 2月にここまで行けば4月の文学フリマ金沢に新刊を出せるはず。
 めでたい。

 ほぼ2年かけ、真面目だけが取り柄の男が、18歳から31歳になるまでをじわじわ描いた。
(2013年3月3日の記事に「小説を書き始めてしまった」と書いてある)
 振り返ってみると、オカマ育成ゲームをずーっとプレイし続けているような感じでした。
 作者も驚くほど世話好きに育ったよ……

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 歌舞伎の研究者を目指す七瀬。
 村上春樹と同じ勉強がしたい、と演劇専修に進んだ周平。
 周平の恋人で、いつも周平と一緒にいる七瀬にやきもちを焼く克巳。

 奇妙なバランスを保ったまま過ぎてゆく、三人の大学生活。
 しかし、永遠に変わらない関係などありえない。


 これから話すのは、壊れてゆく恋の話だ。
 なるべく楽しく語りたいとは思うけれど、何しろ結末が決まっている。
 それぞれの立場で出来得る限り足掻きもがいたのに、逃れようがなかった。
 俺も、周平も、克巳も。

 新作長編小説「贋オカマと他人の恋愛」
 ついに完成!(←ちょっとウソ)

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「ナルシスト! 女装した自分の写真をテレホンカードにして持ち歩くなんてバカじゃないの」
「いや、母親が作るんだ。しかも計算が雑だから、例えば五百枚で間に合う時でも七百枚くらい頼んじゃって、うちには大量の俺のテレホンカードが余っている。欲しければやるよ」
「いらない!」
「ねえ、何でそんなにテレホンカードを作るの?」

 という会話が自分では気に入っています。
 テレホンカード……!
 
posted by 柳屋文芸堂 at 01:43| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年01月31日

(自分にとって)正しい描写を見つけ出す

 生きていて欲しかった
 死なないで欲しかった
 生きていてもらいたかった
 死なないでもらいたかった

 全てほぼ同じ意味なのだけど、登場人物が言いたいことに最も近くて、リズムや流れが前後の文章に合うのはどれだろう…… と20分くらい考えていた(最終的に「生きてもらいたかった」に決定)
 私は小説書きの時間の9割をこういう言葉の選択に使ってしまう。

「大意は変わらないんだから、適当に決めて話をどんどん進めれば良いのに……」
 と思われるだろうし、自分でも、
「力を入れるべきなのはそこか?」
 と長年疑問に感じている。

 しかし、例えば世の中の絵描き全てが、
「何が描いてあるか分かれば良いんだから、適当に描いてさっさと完成させちゃおう」
 と目っぽい目、鼻っぽい鼻、を雑に描き続けていたら、美術史はとんでもないことになっていたよね。

 何でそんなのが気になるの? と他人が首をひねるようなことにウンウンうなり続けた結果が、今残っている芸術なのだ、きっと。

 いくつか前の記事(これ)で三味線のお稽古では先生が「問題のあるところを指摘して」くれると書いた。
 どうしてそういう指導が出来るかというと「正しい演奏がどんなものか」を知っているから。

 小説でも良い先生に巡り合うことは可能なのだろう。
 けれども基本的には、自分自身で問題のあるところを見つけ出して直していくしかない。
 何故なら「完成すべき小説の形」を知っているのは作者だけだから。

 生徒であると同時に、自分を指導出来る優秀な先生になること。
 生徒としての忍耐力と、先生としての鋭さが高ければ高いほど、小説の完成度は上がるのだと思う。

 そして書き続けるためには、自分という先生につぶされないように。
 言葉というのはもともと、完璧に演奏することなど出来ない、難しい楽器なのだから。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:41| 執筆 | 更新情報をチェックする

小説の書き方本

 小説の書き方本も色々読んだけど、正直、あまり役に立たなかった。
 一番笑ったのが、渡辺淳一の本(題名が思い出せない)

「恋愛小説を書く時は、舞台となる場所の地名も大切です。
 長万部(おしゃまんべ)で恋は出来ません」

 そりゃお前の趣味だろ! 
 買わずに図書館でパラパラ見ただけなので文章はうろ覚えですが、「おしゃまんべ」は合ってるはず。
 素敵じゃないの、おしゃまんべの恋。

 三田誠広「天気の好い日は小説を書こう―ワセダ大学小説教室」は、その内容よりも読んだ時の心の状態が強く記憶に残っている。
 ちょうど、小説を書きたい、という気持ちがパンパンに膨らんで、でも出し方が全然分からない、という時期だったから。

 大学三年の冬で、大雪が降り、近所の全ての道に白い山が出来ていた。
「これを読んだら、書けるようになるのかも」
 という期待で体の奥が熱くなる感触と、その風景を一緒に思い出す。

 最初の頃はこの本に書かれているルールを真面目に守っていて、そのせいでしばらく文章を書くのが窮屈だった。
 もっと自由に書けるようになりたい! と考え始めるきっかけになったから、まあ読んで良かったのかな。

 おそらくどんな作家も、
「自分の小説の書き方」
 についてしか語れないのだと思う。
 それをそのまま真似しても、その作家の劣化コピーにしかなれない。

 みな素質も経験も書きたいものも違うのだから、一人一人自分なりの書き方を見つけ出していかなければいけないのだろう。
 他人の生き方を100%真似られないのと同じように。

 私の場合、書き方本より好きな作家のエッセイに出てくる創作についての話の方が参考になった。
 好きな作家ならたとえ劣化コピーでも似せられたら嬉しいし。

「ときどき、どうしたら作家になれますか、という手紙が来る。でも返事は出さない。
 それを見つけられた人が作家になれるのだ」

 という内容の山田詠美の文章が、私の読んだ中で最も正しい「小説の書き方」だ。
(これもうろ覚えなので細かいところは間違っていると思います。ごめんなさい)
 
posted by 柳屋文芸堂 at 01:48| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年01月28日

小説の書き方の学び方

 他の人たちはどうやって小説の書き方を学んでいるのだろう。

 私は小説の書き方についての本を読んだり、好きな作家のエッセイに出てくる創作についての話を参考にしたり、映画や美術や短歌の本から小説と似た部分を見つけ出したり、読んだことのある小説を思い出したり、色々しながら書いているけれど、総合してみれば結局のところ、
「見よう見まね」
 である。

 たとえば楽器の演奏の学び方が「見よう見まね」だけであったら、世の中の音楽のレベルはずいぶん低かったのではないか。
 まあ楽器を習う時も「まね」はするのだけど、

 先生の演奏を聴く・見る→自分でまねて演奏→問題のあるところを指摘してもらう→もう一度演奏

 というようなことを繰り返す。

 小説の書き方は「問題のあるところを指摘してもらう」機会がほとんどないのだ。
 文学部の文芸学科に行けばやってもらえるのかなぁ。

 小説のどんな部分を「問題のあるところ」とするか、というのもなかなか難しい。
 どうしても指導する先生の個性が出てしまう。
 たとえば村上春樹に指導してもらって、村上春樹そっくりの文章を書けるようになったとしても、村上春樹は二人もいらない。

 「問題のあるところを指摘してもらう」ことで到達出来るのは、「他人が読んで分かる文章を書けるようになる」ところまでなのかもしれない。
 文章というのは独りよがりになりがちなものなので、これだけでもやれるようになったら立派なことだ。

 しかしおそらく、小説で最も大切なのはそこじゃない。
 非常に分かりやすい、どこかで読んだような話、なんて誰も読みたがらない。

 魅力のある小説とは何か。
 それをどんな言葉の連なりで表現すれば良いか。
 自分で考え、自分で選ぶことに意味がある。
 読者が求めているのは、唯一無二の人間が書いた、唯一無二の物語なのだから。

 それでも「見よう見まね」は不安だ。
 もうちょっと確かな方法がありそうなものなのに。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:37| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年01月20日

性別という枠の外側

 私は小説の中に同性愛者や性同一性障害の人を出すけれど、自分は異性愛者で性同一性障害ではないので、そういう少数派の人たちの苦労を実際に味わった訳でもないのに、書いちゃって良いのかな…… という迷いがいつもあった。

 でも小説の行数が増え、登場人物がどんな人たちか明らかになるにつれ、
「この人は自分をゲイと言っているが、ゲイの多数派(←これも想像だけど)とは微妙に違う気がする」
「性同一性障害と紹介する他ないけれども、聞いているのと何か違う」
 という風に思う回数が増えてきた。

 同性愛者や性同一性障害を正しく描けていない、とも言えるのだけど、そもそも「正しい同性愛者や性同一性障害の人」って何だろう。
 男と女に色んな人がいるように、同性愛者や性同一性障害の人にも色んな人がいるはずで、もっと言うと、そういう枠のどれにも入れないという人も少なくないのではないか。

 私は子どもの頃から女の子らしくするのが苦手で、かと言って男らしい訳でもなく、性別というものの前で途方に暮れていた。
 性別ごとにやるべきこと、やるであろうこと、やった方が良いとされること、等が決まっていて(例えば化粧とか)そういうのを何でやらなければいけないのかがよく分からなかった。

 私が描きたいのは男でも女でも同性愛者でも性同一性障害の人でもなく、どの枠もいまいちしっくり来ない、という人たちなのかもしれない。
 この枠は恋愛する時と社会生活する時にはっきりと壁になって人の前に立ちはだかる。
 これまでに何度も困ったり、不安になったりした。

 異性愛者が同性愛者を描く、と考えると難しい気がするけど、枠に入れない人が枠に入れない人を描く、となれば自然な行為と言えるのではないか。
 それは別の形に変換された私の物語だ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:26| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年01月17日

性描写について

 性的な表現が嫌いな訳ではないが(ものによっては大好きと言っても良い!)
 暴力的な性描写は苦手だ。
 どこまでが良くてどこまでがダメなのか、自分でもよく分からないのだけど。

 正直、
「暴力的な性描写が減ると良いのになぁ」
 と思っている。

 世の中には表現の自由というものがあるので、
「書くな! 見せるな!」
 とはもちろん言わない。

「うっかり見せられたりしませんように……」
 と祈りながら暮らすだけだ。

 暴力的な表現に対抗するために、ラブラブ甘々性描写をガンガン書くべきかもしれない、と思ったりする。
 反対することで暴力的な性描写を減らそうとするのではなく、ラブラブ甘々性描写の数を増やし、暴力的なものの「割合」を減らすのだ。

 私は性というものに、とてもあたたかい印象を持っている。
 性描写はこんなにもあふれ返っているのに、何だか私が知っているのとは別のものみたいだ。
posted by 柳屋文芸堂 at 01:13| 執筆 | 更新情報をチェックする

2015年01月16日

登場人物の勝手な行動

 小説を書いていて面白いなー と思うのは、登場人物が突然こちらが予期していないことを始めるところ。
 一人で考えて一人で書いているのだから、登場人物は100%作者の意図通り動くだろう、と思ったら大間違い。
 架空の人物とは言え作者とは違う人格や思想や経験を持っている訳で、状況を設定すればおのずとその人らしい行動や発言をし始める。

 今日書いていた部分でもそういうことが起きた。
 ぼんやり予想していた展開よりも登場人物が積極的で、
「へー そんなに好きって伝えたいの」
 と観客みたいに驚いてしまった。

 もちろん登場人物の意思を無理やりねじ伏せて、作者の言わせたいことを言わせる(やらせたいことをやらせる)というのも可能だけど、すごく不自然な感じになっちゃうのだ。
 台風の進路を予測するプログラムを組んだ人が、台風の行き先を決められないのに似ています。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:12| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年12月10日

プロットとは何か

 小説を書く人たちが使う「プロット」の意味がよく分からなかった。
 日本語にするなら「物語の筋」あたりなのだろうけど、
「プロットを作る」
「プロットを組み立てる」
 なんて言い方をするのが疑問だった。

 物語の筋というのは作者が決めるものではなく、
「登場人物や状況を設定すれば勝手に進んでいくもの」
 だと私は考えていたのです。

「プロットを見守る」
 というのが自分の印象に近いけど、誰もそんな変な使い方しない。
 私はプロットというものをちゃんとつかめてないんだなー
 と思っていた。

 しかし先日、ハッと気付いたのです。
 プロットには「グラフの線を引く」という意味もあることに。
 これだーっ!
 これこそ私にとっての「物語」

 y=2x+3

 だとしたら、xが1の時yは5、xが2の時yは7、xが3の時yは9……
 と点を打っていって、それをつなげていく。

 とりあえずxを「A君に恋する主人公の、好きという気持ちの大きさ」だということにしましょう。
 好きという気持ちがちょっとだけの時には、A君の姿を見ると顔が赤くなる。
 好きという気持ちが大きくなった時には、A君を誰にも取られたくないと思う。
 好きという気持ちが病的に強くなった時には、取られる前にA君を殺してしまおうと決意する。
 yは「xの変化によって起きてゆくこと」になるんです。

 なるほど、プロットってそういうことだったのか!
 と自分では納得したんですが、この説明で伝わるかな……
posted by 柳屋文芸堂 at 00:03| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年11月09日

目から鱗

 読んだ人が、
「目から鱗が落ちた」
 と感じるような文章を書きたいなー と常々思っている。

 そのためにまず、自分の目から鱗をガンガン落とそう、と心がけている。
 本でもラジオでも友だちの話でも、何でも良いのだけど、自分の勘違いや無理解を正してくれるものが、世の中には沢山ある。

 もちろんそうしょっちゅう斬新な視点が手に入る訳ではないし、こちらから提示出来るとも限らない。
 貴重だからこそ、目から鱗。
 自分に与えられた機会を、なるたけ逃さないようにしたい。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:16| 執筆 | 更新情報をチェックする