2014年05月08日

乙女暴走小説

 私は時々(もしかしたら「定期的に」?)乙女が暴走する小説を書いてしまう。
 そうすると脳がその乙女に支配され、家事を放り出して小説の続きを書いちゃったり、書くのをやめて家事をやろうとしても小説の世界から帰って来られずボーッとしたり、とにかく大変なことになる。
 私の中の荒ぶる乙女よ、鎮まり給え……

 私が一番書きやすいなー、と思うのは、男を語り手にした小説(「俺は〜」「僕は〜」等)
 前に「男が描く女について」という記事でも書いたように、男を自然に描けている自信なんて全然ない。
 きっと男から見たらニセモノの男なのだろう。

 それでも書きやすく感じるのは、
「男はこんな風に考えるか? こんな言葉を使うか?」
 と迷いながら進むことがちょうど良いブレーキになって、暴走しないで済むからかもしれない。

 「オカマ先生の恋愛レッスン」を書いていた時なんて、
「あたしのこと、早く書いてよ!」
 って毎朝オカマ先生に起こされてたからな……
 他の人がどうなのかは知らないけど、私にとって小説書きは病気のようなものだ(でも治ったら困る)

 暴走するということは完全に同調している訳で、私の本質はそんなにも乙女なのだろうか。
 もう少し冷静なつもりなんだが。
 現実で乙女になり切れないから、物語の中で乙女になるのか。
 歳のせいではなく、若い娘の頃から若い娘でいるのが下手だった。

 現実の世界で何かになるのはこんなにも難しいのに(女が女になることさえも)
 小説の中では男だろうとカエルだろうと、何にだってなれる。
 まずはこの自由を楽しもう。
 たとえ上手くいかなかったとしても。

 あと、家事もちゃんとやろう……
posted by 柳屋文芸堂 at 01:54| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年04月27日

小説の神様

 小説のアイデアが浮かぶことを、
「小説の神様が降りてくる」
 と表現したりする。

 私も小説の内容がパッと頭に浮かぶことはあるけれど、どうしてもそれを「神様」とは思えなかった。
 そのアイデアが富と名声を運んでくるなら、そりゃ神様かもしれない。
 けれども私は小説を書きたいと思ってしまうせいで、人生に様々な支障をきたしている。

 心が物語世界に行ってしまうと、現実世界ではボーッとしてしまって、ちゃんと生きられなくなるのだ。
 会社に勤めている時には仕事がはかどらなかったし、主婦の今は家事がおろそかになる。
 小説のために使っているエネルギーを全て商売に注ぐことが出来たら、私は金持ちになっていただろう。

 金を稼ぐ暇があったら文章が書きたい。
 そう思ってしまったら、どれほど生きにくくなるか。
 何しろここは資本主義国なのだ。
 
 プロになれたら話は簡単だ。
 売るために小説を書くのね、と周囲も理解してくれる。
 しかし当然ながら、プロの小説家になるのは非常に難しい。
 そしてプロになれるかどうかに関係なく、私の頭には「書いて、書いて」と登場人物がわいてくるのだ。

 私のところにやって来ているのは「小説の神様」ではなく「小説の悪魔」なんじゃないか……?
 そんな風に疑っていた。

 もしあなたに物語が書けるとしたら(中略)まず自分にそういう能力が(多かれ少なかれ)あるのだということに、喜びを感じるべきだと思います。ゼロから何かを生み出すというのは、誰にもできることではありません。あとのことは、あとのことです。
(村上春樹インタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」より)

 この文章を読み、少し、気持ちが変わった。
 小説を書きたいと思うことで、確かに私は多くのものを失った。

 でも、小説を書くという共通項があったからこそ親しくなれた友人がいる。
 感想を言ってもらう喜びも経験した。
 文章を良くしたいという思いから、読書や勉強にも熱心になった。

 小説を書いている時の、あの恍惚感。
 正直、それが得られただけでも十分かもしれない。

 お金では買えない貴重なものを、色々もらっているじゃないか。
 ようやく私は神様に感謝した。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:51| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年04月23日

去勢しないとこうなるよね

 どうしても我慢出来なくなって家事をほっぽり出して無我夢中で小説を書いている時の私の気持ちは、燃え上がる性欲に耐え切れず塀を飛び越えて走り出して迷子になるオス犬にそっくりだ。
posted by 柳屋文芸堂 at 17:11| 執筆 | 更新情報をチェックする

「上手く」の意味さえ上手く伝えられない

 私が小説を書いていることを知っている友人に、
「なかなか上手く書けなくてね〜」
 と愚痴ったら、
「上手く書く必要なんてないじゃん」
 と返された。

 うーん。
 「上手く書けない」というのは「美文が書けない」って意味じゃないんだ。
 自分の中にどうしても描きたいモヤモヤがあって、
 それを何とかして言葉に変換したい、でも出来ない、という状況。

 上手く書けなかったらモヤモヤがモヤモヤのまま心に残ってモヤモヤするから、
 上手く書く必要が十分にあるんです。精神の健康のために。

 もし私が何事も即座に正確に説明出来る人間だったら、小説なんて書かなかっただろう。
 上手く伝えられなかったモヤモヤが、日々積もってゆきます。
posted by 柳屋文芸堂 at 02:37| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年04月12日

インプットとアウトプット

 スコット・フィッツジェラルド(村上春樹 訳)「グレート・ギャツビー」の訳者あとがきが面白くて、時々読み返す。

 インプットとアウトプットのかねあいが、フィッツジェラルドという作家のひとつの泣きどころになる。インプットにまわすエネルギーが大きくなりすぎると、アウトプットが手薄になるし(中略)かといってインプット作業を絞り込むと、アウトプットすべきマテリアルが不足してくる

 これってプロ・アマ関係なく、物語を作る人はみな悩むところなんじゃないかなー
 マテリアルは「素材」、フィッツジェラルドは小説家なので、アウトプットは「文章を書くこと」
 で、この「インプット」が複雑なんだよね。

 本を読むことも、恋人とケンカすることも、何だって物語の元になり得る。
 でも最終的にどれが役に立つ経験になるか、物語を書くまで分からないのだ。
 仕方ないのでどんな知識も経験も、やみくもに頭に詰め込んでおく(インプット)

 文章を書いているだけでは文章は書けない。
 暗室にずっといたら写真が撮れないのと同じこと。
 経験だけあっても文章は書けない。
 美しい風景を目の前にしても、カメラが無ければ撮れないのと同じこと。

 だから私はあちこちに出かけてゆく。
 少しでも良いカメラ(=文章力)を手に入れたいと願いながら。

 小説を書かない人にはこのあたりの事情がいまいちぴんと来ないみたい。
 私の説明が下手なのかもしれないけど。
 文章って、書いている姿だけ見ていると、無からするする出てくるように見えるものね。

 心に無いものは書けないのです。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:49| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年04月06日

BLに戻ってきた理由

 私がBL(男性同性愛を扱った小説や漫画など)に最も強く惹かれていたのは、中学・高校時代だ。
 彼氏が出来た頃からあまり興味を持たなくなって、
「ああいうのは実際の恋愛の代替品なんだなー」
 なんて思っていた。

 そんな私が再びBLを読んだり書いたりするようになったのには、きっかけがある。
 マンションの隣の部屋に、男の人2人が引っ越して来たのだ(今住んでいる所ではない)
 もしかしたら友達だったのかもしれないけど、私の脳内では恋人同士ということになった。
 勝手に想像するだけだし、ときめく設定の方が良いではないか。
 
 そしてふと思った。
 ゲイカップルと子どものいない夫婦(つまり私とDちゃん)はよく似ているな、と。

 そして結婚という制度に守られていない分、危うさがいっそうむき出しになる。
 夫婦という関係だって、実は何にも守られていないのかもしれない。
 結婚も離婚も、紙一枚用意すれば出来るのだから。

 BLという形式を借りた方が、夫婦について自由に語れる気がした。
 「書きたい」が「読みたい」につながって、歌川たいじさんや石川大我さんの本にたどり着き、多くのことを教えてもらった。
(この2人の作品はBLというより実際の同性愛者の体験談ですが)

 生きにくい人たちの生き方は、一見多数派に属しているように見える人々の隠れた生きにくさをあぶり出す。
 こんな形で戻ってくることになるとは、考えてもみなかったな。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:09| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年04月01日

新作長編小説

歌舞伎の研究者を目指す七瀬。
村上春樹と同じ勉強がしたい、と演劇専修に進んだ周平。
周平の恋人で、いつも周平と一緒にいる七瀬にやきもちを焼く克巳。

奇妙なバランスを保ったまま過ぎてゆく、三人の大学生活。
しかし、永遠に変わらない関係などありえない。


これから話すのは、壊れてゆく恋の話だ。
なるべく楽しく語りたいとは思うけれど、何しろ結末が決まっている。
それぞれの立場で出来得る限り足掻きもがいたのに、逃れようがなかった。
俺も、周平も、克巳も。

新作長編小説、ついに完成。

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「ナルシスト! 女装した自分の写真をテレホンカードにして持ち歩くなんてバカじゃないの」
「いや、母親が作るんだ。しかも計算が雑だから、例えば五百枚で間に合う時でも七百枚くらい頼んじゃって、うちには大量の俺のテレホンカードが余っている。欲しければやるよ」
「いらない!」
「ねえ、何でそんなにテレホンカードを作るの?」

 という会話が自分では気に入っています。
 テレホンカード……!
posted by 柳屋文芸堂 at 01:43| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年03月29日

無知じゃないと行けない場所

 密かに尊敬している高村暦さんという方が興味深いツイートをしていたのでご紹介。

「未然性」のもつ力、想像力の行ける範囲が広いうちしか行けない場所に、踏み込んでみること。それは無知についての恥と表裏一体でもあるけれど、無知じゃないと行けない場所は、とても多いと思う。恥と恐怖と遠慮と罪悪感とを覚えれば、いつの間にか色々なことができなくなる。
(高村さんのTwitterはこちら

 私はオカマバーを舞台にした小説を書いたりしているが、実を言うと、オカマバーに行ったことがない。
 行くのは簡単だ(何しろ電車一本で新宿三丁目に出られるしな……)
 リアルな話を書きたければ、取材すべきなのだろう。
 しかし行ってしまったら、その場所に対する夢を見られなくなる気がするのだ。

 その代わり、行ったことのある人の話は熱心に聞く。
「ケバいおばさん、が、おじさん。そんなに面白くなかった」
 ひ、ひどい感想……
 でも私はその短い言葉から、冷めた客に戸惑う派手なお姉さまを想像する。
 初対面の人間同士が語り合う時の、ぎこちなさを思う。

 空想を重ねて作った私の話は、明らかにファンタジーだろう。
 こんなことあり得ない、と笑われるかもしれない。
 誤解を助長する表現はやめろ、と怒られるかもしれない。

 私が書きたいのは現実ではなく、フィクション。
 頭の中の空間に、文字だけが立ち上げることの出来る人々。
 私は私の世界を守るために、無知でい続ける。

 高村さんのこのツイートは、いつも「恥と恐怖と遠慮と罪悪感」でいっぱいの私を、大いに励ましてくれました。
 こういう文章を書けるようになるにはどうすれば良いんですかと、アホみたいに質問してみたい。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:36| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年03月12日

高山なおみへのインタビュー記事

 Soup Stock Tokyoが毎月出しているチラシが好きで、必ずもらってくるようにしている。
 今月のには高山なおみへのインタビュー記事が!!(ネットでも読める→こちら
 私の料理の師匠……!
 と言っても直接習ったことがある訳ではなく、料理を始めたばかりの頃に彼女の本をよく読んでいたのです。
 レシピはもちろん、料理に対する姿勢、暮らし方などいっぱい教わったなー

 今回の文章にも参考になる部分があったので引用してみる。

 たとえば洗濯物を干しながら、風がそよいで木が揺れたとき、その葉っぱの様子や心に起こった変化などをていねいに描写していくと、読者も同じ景色を見ることができるようなのです。ある時、それがわかった瞬間がありました。自分の中にわき起こる実感や、風の微妙な変化など、綿密に書けば書くほど、それは私の内面だけにとどまらず、外に広がって読んでいる人に重なることができる。

 優れた情景描写はトンネルのようなもので、読み手は文字という記号を通り抜け、今いる場所と違う景色の中にすっと入り込むことが出来る。
 そういう文章を書きたい、ものなんですが。

 すごい、と思った文章は技を盗みたいから何度も読むけど、意外と奇抜なことはしていない。
 その代わり、その場面で一番大事なものの描写は絶対に端折ってないんだよね。
「どうしてそんなこと覚えてるの?」
 と言いたくなるほど細かい部分まで書いてある。

 日々の暮らしの中で外界と内面をしっかり観察し、それを忘れない。
 そういう人の文章だけが、読者を別世界に連れてゆく。
posted by 柳屋文芸堂 at 03:17| 執筆 | 更新情報をチェックする

2014年03月08日

にっこり微笑みながら反逆を

 私は自分の小説の中で「親との対立」を書くことが出来ない。
 ついつい物分かりの良い親ばかり出してしまって、
「こんな風に簡単に理解してくれる訳ないだろ!」
「リアリティがない!」
 と思われるだろうなー と思いつつ、やっぱり書けない。

 それは、うちの親がものすごーく私に甘かったからです。
 親だけじゃなく、伯母×2も、伯父も。
 溺愛、という言葉がまさにぴったり。

 私は母親が40歳の時の子で、伯母や伯父にとっても、
「人生の後半に突然やって来た赤ん坊」
 だった。

 彼らの愛情を表現しようとする時、高村光太郎「レモン哀歌」の
「生涯の愛を一瞬にかたむけた」
 という一文が思い浮かぶ。

 戦中、戦後の苦労があり、がむしゃらに働いた高度成長期があり、気がつけば全員婚期を過ぎて独身で、目の前に父親の分からない女の子が。
 それはそれでちょっと偏った愛だったかもしれない。

 しかしまあ、私は世間的に見れば「複雑な家庭」の「私生児」な訳で、私がもし愛情不足で不幸だったら、世間の思う壺(?)という感じがする。
 たとえ標準家庭と構成がズレていても、戸籍の父親の欄がからっぽでも、全く問題なくのほほんと生きられるのだ、ということを私は生涯かけて証明すべきなのだろう。

 私は幸福な少数派について書く。
 人間の寛大さを描く。
 私が受け取った大量の愛情を文章の中に散りばめる。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:06| 執筆 | 更新情報をチェックする