2013年09月23日

語彙力

 語彙力というのは、単語を知っているだけではダメで、文脈の中で的確に使えないといけない。
 辞書を引くたびに感じるのは「もっと用例を増やして!!」
 私が知りたいのは意味だけではなく、その単語が「どのように使われているか」なんだ。
 iPhoneに入っている広辞苑と類語辞典でまあ間に合っているのだけど、例は多いほどありがたい。

 最近はネットで検索をかけて、
「沢山出て来るから、たぶん正解だろう」
 とその単語を使うかどうかを決めたりする。
 言葉というのは多くの人が使えば間違いも正解に転じたりするので、それほどいいかげんなやり方でもないと思う。

 この間、間違って使いそうになったのは「気に添わない」
 「気に染まない」ならOKらしい。
 「意に添わない」もOKらしい。
 なんかでもそのうち「気に添わない」もOKになっちゃいそうな気が。

 辞書で「気」「意」「添う」「染む」を調べただけでは、どれが一般的なのかいまいち分からない。
 ネットで検索すれば一応の正解は分かるが、自分の自然な言葉としてすぐに使えるようになる訳ではない。
 辞書やネットだけに頼って文章を書くのは無理だ。
 読書量を増やして、分厚い「脳内用例集」を作らないといけないのだろう。

 けっこう長く努力しているつもりなのに、まだ全然足りない。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:08| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年09月08日

じーころじーころ

 今書いている小説の話。
 この登場人物の家の電話はどんなのかな…… と考えた末、こういう文章を書いた。

「電話の前に立って周平の携帯の番号を回す

 そう、ダイアル式なのである!
 Dちゃんにこの話をすると、
「『かつてダイアル式と呼ばれる電話があり、円形の板を回すことで番号を送信した』
 って注を入れないと分かりにくいよ。イラストも付けて」

 今やダイアル式を全く知らない人もいっぱいいるのかなー
 でもその登場人物、古いものを使い続けそうな奴なんだ。
 性格にぴったり合う小道具を考えているのは幸せです。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:54| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

「小説を書く」という病気について

 今書いている小説の登場人物たちがようやく大学を卒業してくれた……
 大学入学(18歳)から始まって、30代になるまでを描く予定。
 文学フリマに間に合うかなー
「絶対間に合わせてやる!」
 なんて無理はしない私であった。

 前に、朝から晩まで飲まず食わずで「妖怪は・じ・め・て物語」という小説を書き上げてしまい、その夜から腹痛と高熱に襲われ、その経験を「私小説」という話にした。
 こういう二日間ばかりが続けば、短編小説をいっぱい完成させられるのに。
 命の保証はない。全く。

 最近私が気に入っている小説執筆場所は、電車の中。
 iPhone(アプリはiText Pad)を使います。
 目的の駅に着いたら降りないといけないので、現実に戻って来られる。
 家で書くと、家事や食事や自分の人生を全部放棄しそうになるので怖い。
 書けないのも辛いが、書くのを止められないのも危険なのだ。

 「私小説」読み直してみたけど、主人公(=私)がアホ過ぎる……
 死ななくて本当に良かったです。
posted by 柳屋文芸堂 at 01:37| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年07月19日

紡ぐ

 何となく予想はしていたけれど、今書いている小説、長い……
 一つの作品の中で10年以上時が経つのである。
 そりゃある程度、量がいるよな……
 400字詰め換算で200枚くらいになるのだろうか。
 長さって、書いてみないとよく分からないんだ。
 現在100枚くらいなので、とりあえず夏コミでは出ません。
 文学フリマで出せるかなー

 主人公は最初18歳で、30代になって終わる。
 何かを得たり失ったりしながら、少しずつ変化していく様子が伝わると良いなぁ、と思っている。
posted by 柳屋文芸堂 at 02:12| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

小説の感想

 ポエケットでうちの本を購入した方が、感想をブログに上げてくれました〜(こちら
 「泥の小舟」、14年前の夏に書いた小説である。

 最近、昔の作品への感想をもらうことが多いです。
 発表してすぐ感想が来なくても、地道にイベントに出続けると反応があるものなんですね。
 小説を書いて読んでもらう、というのは時間のかかるプロジェクトなのだ。
 弱気にも強気にもならず、コツコツやっていこうっと。
posted by 柳屋文芸堂 at 01:57| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年07月10日

ポエケットでの質問

 ポエケットで「オカマ先生の恋愛レッスン」を見たお客さんに、
「女性がオカマの話というのは面白いですね。オカマになり切って書くんですか」
 と尋ねられたので、
「いえ、執筆中ずっと『あたしのこと、早く書いてよ!』と毎朝オカマに起こされるんです」
 と答えたら大ウケされたが、単純に事実である。

 「オカマ先生…」のヒロイン(?)キミヤの「マルちゃん大好き!」という気持ちは本当に強くて、けっこう疲れた。
 書き始めた時には結末が決まっておらず、
「どうなるのかなぁ。ちゃんとまとまるのかなぁ」
 と不安に思うと、
「大丈夫。あたしたち、必ず上手くやるから」
 とキミヤは自信満々に言うのだった。

 頭のおかしい人と思われてもしょうがない。
 登場人物たちが取り憑いちゃうのだ。
 「小説を書く」というのは私にとって「除霊」に近い。

 数年前、「殻/羽根」という小説について、
「どうしてボディービルダーについて書こうと思ったんですか」
 と尋ねられたので、
「ある日、背中にべったりボディービルダーが張り付いてしまって……」

 私に決められることなんてほとんど無い。
 彼らが納得してくれるよう、言葉を丁寧に選ぶだけだ。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:14| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年06月05日

表現の自由と独善について

 10年ほど前の話。
 ある人(仮にAさんとしよう)が自分のホームページで差別的な発言をしたということで「Aさん問題検証サイト」が作られた。
 Aさんは割に有名な人だったらしく(この問題が起きるまで私は知らなかった)あちこちの個人サイトのトップに検証サイトへのリンクが貼られた。

 そのリンクを貼っていた人々は、
「自分は善いことをしている」
 と信じている様子だった。
 差別は悪いこと。差別する人を糾弾するのは当然のこと。
 というように。

 私は「オカマ板前と春樹カフェ」という題名の小説をネットで公開している。
 「オカマ」というのは差別用語なので、
「柳田は差別的な奴だ」
 と非難される可能性は十分ある。

 幸い私は有名ではないので、Aさんのような目に遭うこともないだろうが、もしも検証サイトが作られたらどうなるか、仮定の話として考えてみよう。

 まず私のメールアドレス宛てに、
「あなたの検証サイト見たよ。どういうこと?」
 という友人・知人からの問い合わせが来る。

 そして全く知らない人たちから、
「あんな差別的な題名をつけるのはおかしい」
「傷つけられた人の気持ちになれ」
「今すぐ削除しろ」
 という攻撃的な文章が届く。

 毎日見に行くページに、検証サイトへのリンクが貼られる。
 大好きなブロガーさんたちが次々私の差別を批判する記事を書く。

 もしそうなった時、私は「オカマ板前と春樹カフェ」の公開をやめるだろうか?
 やめない。
 批判に対する反論を発表するだろうか?
 たぶんしない。
 消耗したくないから。

 その代わり、私は他者に開いた扉を全て閉ざすだろう。
 メールはひと通り目を通してから返事を出さずに削除する。
 他人のサイトは一切見ないようにする。

 孤独になってもかまわない、という覚悟がなければ、表現の自由は得られない。
 表現(私の場合「言葉」)は、人とつながるための道具なのに。
 不思議で、悲しいことだ。

 表現の自由を奪う力は、政治家より「独善的な普通の人々」の方が強いのではなかろうか。
 人数の多さと、距離の近さ。
 私は常に恐怖を感じている。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:55| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年05月30日

「小説を書く」という病気について

 小説を書いているせいで、頭がボーッとしている。
 気が付くと物語の世界に行ってしまって、現実に存在しているはずの私は空っぽになる。
 登場人物たちの会話がずっと聞こえる。

 病気と診断されても文句は言えない。
 でも治されちゃったら困るのだ。

 「日常」と「小説書き」の折り合いをどうつけるか。
 才能や技術より、そこが一番難しく大切であるように感じている。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:45| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年04月12日

小説が目指すもの

「事実は小説よりも奇なり」
 という言葉を嫌う小説書きの人は多いけれど、私は小説より事実(現実)の方が奇妙なのは当然だと思っている。
 納得がいかなかったり、理解を超えていたり、その事実を目の前にした時には処理出来なかったあれこれを整理整頓するのが、小説の役割なのではないだろうか。

 書く人間も、読む人間も、混沌として無茶苦茶な現実に生きている。
 書く側はその中から大切な要素を引っぱり上げ、つなぎ合わせ、
「現実とはどうやらこういう場所のようです」
 という報告書(=小説)を出す。
 読む側はそれを読んで、過去と現在の意味を知り、未来の出来事に備える。

 小説は「奇」な現実を生きる人々の助けになる。

 こんな抽象的な説明で伝わるのか不安ですが……
 私は信じています。
posted by 柳屋文芸堂 at 02:09| 執筆 | 更新情報をチェックする

2013年03月10日

物語を作る−仮説の話

 良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。
(村上春樹「雑文集」より)

 小説を書く、というのがどういうことなのか、この文章を読んで少しはっきりしました。
「彼女がもし最終兵器だったら」
 という仮説を立て、その後に起きるであろう事件をふざけず真剣に積み上げていけば「最終兵器彼女」という物語になる。
 いや、これは漫画だけど、仮説の無茶苦茶さと積み上げ方の丁寧さが印象的なので例に挙げてみた。

 仮説について考える時、一番分かりやすいのはSFだと思う。
「人造人間がこの世に生きることになったら」
 →「フランケンシュタイン」
「第二次世界大戦でドイツと日本が勝っていたら」
 →「高い城の男」
 仮説が荒唐無稽でも、その仮説から引き出されてゆく事実が自然であれば、その物語は真に迫ったものになる。

 SFのように奇抜なところの無い一般的な物語において、一番大きな仮説は「登場人物の性格」なのではないか。
 私はなるべく詳しくその登場人物のそれまでの人生を考え(家族構成、趣味、得意不得意、のんびりしてるかせっかちか、など)心の中で彼らがちゃんと生命を持つように気をつける。
 時々うっかりして「彼らの意見」ではなく「自分の意見」を言わせそうになり、危ない危ないと修正したり。

 作者と登場人物は同じではない(似てる場合はよくあるけど)
 登場人物を自分の思い通りに動かすのではなく、彼らがやること・言うことを静かに見守って書き留める。
 作者は登場人物にとって神ではなく、庭みたいなものだ。
 読む人がなるべく面白く感じるように、登場人物の行動記録を編集する必要もある。

 それにしても、仮説を積み上げてゆくことは何故こんなに幸せなんでしょう?
 他人が積み上げたものを読書によって吸収するのも、また幸せですね。
posted by 柳屋文芸堂 at 21:27| 執筆 | 更新情報をチェックする